出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1187 三星社の水上齊訳『全訳ボワ゛リー夫人』に至るまで

 本探索1184の『ボワ゛リー夫人』がようやく出てきたので、ここで書いておく。黒川創の『国境』において、夏目漱石の仲介で明治三十四年に『満洲日々新聞』に連載されたフロオベルの『ボワ゛リー夫人』は植民地の新聞だったこともあり、ほとんど知られていないとされていた。
国境 完全版

 しかしこちらは誰の仲介なのか確認できないけれど、大正に入って内地の出版社によって単行本化されていたし、『近代出版史探索Ⅱ』227で既述しておいたように、買い求めていたのである。それは最初の版ではなく、これも譲受出版のほうで、ゾラと異なり成光館ならぬ、本探索1167などの三星社版を入手している。しかもそれは十年以上前で、山本昌一の『ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学』(双文社、平成二十四年)を読んだことがきっかけだったと思う。三星社版は函入上製、菊半截判、第一、二篇合わせて七三五ページで、大正十年六月五版発行、発行者は簗瀬富次郎である。

f:id:OdaMitsuo:20210810112242j:plain:h110 (『ボワ゛リー夫人』、三星社版) ヨーロッパの翻訳本と日本自然主義文学

 やはり同227でふれているように、プロフィルは定かでないが、簗瀬と近田澄は三陽堂、東光社、三星社という特価本出版社トライアングルの主要人物に他ならない。だが三星社は特価本出版社だけにとどまらず、『近代出版史探索Ⅳ』747の喜田貞吉が創立した日本地理歴史学会の機関誌『歴史地理』、及び喜田の弟子にあたる菊池山哉『穢多族に関する研究』(大正十二年)の発行所だった。

 山本は前掲の著作の「『マダム・ボワ゛リー』と英訳本のこと」の章において、実際に現物を入手し、書影も示した上で、『満洲日々新聞』の水上訳『ボワ゛リー夫人』が「ロータス文庫」のヘンリー・プランシャンの英訳に基づいていることを実証していく。そして最初の単行本、抄訳『マダム・ボワ゛リイ』が大正二年に『近代出版史探索Ⅱ』220の東亜堂から出され、発禁本となり、次に同四年の植竹書院の全訳と銘打たれた『ボワ゛リー夫人』の刊行までをたどる。

f:id:OdaMitsuo:20210810135819j:plain (『マダム・ボワ゛リイ』、東亜堂)f:id:OdaMitsuo:20210810113524j:plain:h127 f:id:OdaMitsuo:20210810113829j:plain(植竹書院版)

 しかしその内実として、東亜堂抄訳版は新聞連載の大幅な増補を経ているが、植竹書院全訳版は「抄訳」に対する増補は少ないとされ、それがそのまま三星社へと引き継がれていったのである。三星社と植竹書院の関係は、これも本探索1167などでもふれたばかりだが、成光館と同じく三星社グループも、大正時代後半に多くの外国文学の譲受出版を担っていたことになる。

 そうした大正時代における英訳に基づく『ボワ゛リー夫人』の翻訳出版が続いていく一方で、『近代出版史探索』186の中村星湖訳『ボワ゛リイ夫人』が大正五年に早稲田大学出版部から出され、同九年に新潮社の『世界文芸全集』、昭和二年に同じく『世界文学全集』20に収録されていく。『新潮社四十年』の語るところによれば、『世界文芸全集』の『ボワ゛リイ夫人』は早大出版部版が発禁処分を受けたこともあって、「我が社は、お百度を踏んで検閲当局に時、熱意の迸るところ幸ひに良き理解を得て、やうやくこの世界的名著を、一般読書界に提供できた」とある。

f:id:OdaMitsuo:20180911113032j:plain:h120(『世界文芸全集』)f:id:OdaMitsuo:20210810165128j:plain:h120(『世界文学全集』)f:id:OdaMitsuo:20210512105601j:plain:h110(『新潮社四十年』)

 それゆえに新潮社の好調な売れ行きを見て、三星社の水上訳『ボワ゛リー夫人』の譲受出版も企画され、版を重ねていったと推測される。三星社版の造本が『世界文芸全集』を模しているのは歴然である。その間に同じ新潮社から大正三年に、田山花袋訳『マダム・ボワ゛リイ』、同十三年に春陽堂から酒井真人訳述『ボワ゛リイ夫人』、昭和二年に万有文庫刊行会の本探索1146、1147などの河原万吉訳『ボワ゛リイ夫人』が刊行されている。

 これらの三冊に関して、山本はやはりそれらの書影を示し、テキストを比較照合し、花袋訳は水上訳をベースにした抄訳で、花袋名での代作ではないかとも推測している。また春陽堂の酒井訳述、「万有文庫」の河原訳の双方は、明らかに星湖訳によっているとの判断が下される。私はこれらの三冊を入手しておらず、未見であるが、大正時代の翻訳出版や譲受出版事情を考えれば、山本の見解を肯っていいと思われる。ただ同じく「万有文庫」の河原訳『居酒屋』は所持しているので、これも本探索1184『世界文芸全集』所収の木村幹訳と比較してみると、こちらの訳文は明らかに異なっているし、同じく水上訳『酒場』も同様である。

 さらに山本はフランス語からの直訳を謳っている星湖訳にしても、早稲田大学出版部版は初めての英訳であるエイヴリング訳を主として参照し、それをフランス語原文と照合したのではないかという推論を提出している。これも早稲田大学出版部版を入手していないけれど、山本が掲載している書影と造本を見て、ゾラの中島孤島訳『生の悦び』と同じ菊判の「近世文学」シリーズの一冊であることに気づかされた。その「序」において、中島はヴィゼッテリィの全訳と抄訳に基づき、フランス語原書も参照と記しているので、大正初期にあってはフランス語の場合、英訳を主とし、原書は従とされていたとも考えられる。

 そうした出版と翻訳状況において、特価本出版社も含め、大正時代を通じ、『ボワ゛リイ(ー)夫人』は様々な本訳によって流通販売され、読者へとわたっていたことになろう。


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古本夜話1186 ゴンクール『売笑婦エリザ』、アラン・コルバン『娼婦』、『ナナ』

 本探索1173のドーデ『巴里の三十年』 において、フローベールの家での晩餐会にはゴンクールの『令嬢エリザ』も供されていた。ゴンクール兄弟に関しては『近代出版史探索Ⅴ』825、826で取り上げているが、この作品は弟のジュールの死後、一八七七年に兄のエドモンが書き下ろしたもので、原文タイトルはLa Fille Elisa であり、まだ邦訳も出されていないことから、直訳され、そのタイトルで引かれていたことになる。

f:id:OdaMitsuo:20210719111237j:plain:h120 (創藝社版)

 実は創藝社版『巴里の三十年』 が昭和二十四年に刊行された翌年に、これも『近代出版史探索Ⅴ』822の岡倉書房から、桜井成夫訳『売笑婦エリザ』として出版に至っている。その「序」で、エドモン・ゴンクールは同826の『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』 と同じく、「人間の悲惨事にたいする同情の念と知的好奇の念から書かれたもの」と述べ、また「読者の心に沈鬱な瞑想以外のものをもたらすことがないやうに」書いたと記している。そして「売淫と売笑婦とは一挿話にすぎなくて、刑務所と女囚、これが、本書のねらひ」であるとも。

f:id:OdaMitsuo:20210804151217j:plain:h120(『売笑婦エリザ』) ジェルミニィ・ラセルトゥウ (岩波文庫) (『ジェルミニィ・ラセルトゥウ』)

 確かに第一篇は産婆の小娘エリザをめぐる「売淫と売笑婦」の物語だが、その序章に当たる部分と第二編は「刑務所と女囚」を描き、禁錮刑によって女の理性を永久的に殺してしまう偽善的なオーバン制度に迫り、ゴンクールの「ねらひ」が後者にあるとわかる。しかし小説としての「売淫と売笑婦」に他ならない第一篇がリアルであることと相反していない。エリザがたやすく売笑婦になったのは「少女時代から、売笑といふことを女性の最も普通の職業だと見る癖がついてゐた」からで、それは次のような事情によっていた。

 エリザは、永年、淫売婦たちのそばで、看護人として暮したが、そのころ、その女たちが、自分たちの商行為を指して、働くといふ言葉を使い、しかも深い信念をもつて使つてゐるのを耳にしたものだつた。それかあらぬか、エリザは売春といふことを、ほかの職業ほどには骨の折れない楽な職業、不景気知らずの職業と考へるやうになつてゐたのだ。

 それに貧困と怠け癖、娘特有の「肉体の弛緩状態」が加わり、エリザをして売笑婦ならしめたのだ。それゆえに主として「そのころ」、十九世紀後半の売春の社会史といっていいアラン・コルバンの『娼婦』 (杉村和子監訳、藤原書店、平成三年)において、資料として使われることになる。この一冊は前回ふれたアナ―ル学派の「売春の社会史」と謳われている。コルバンは第Ⅱ部「監禁から素行の監視」の第2章「満たされぬ性と売春の供給」で、次のように述べている。

 娼婦 〈新版〉 (上) 娼婦 〈新版〉 (下)

 一八七六年から一八七九年にかけて、(中略)文学と美術において、売春を取り上げることによる明らさまな性の表現が見られるようになった。実際に性を扱ったいくつかの作品がほぼ時を同じくして発表される。たとえば、『マルト』、『娼婦エリザ』、『ナナ』、『リュシー・ペルグランの最期』、『脂肪の魂』(中略)などである。

 『マルト』は『近代出版史探索Ⅴ』828のユイスマンスの処女作で、マルトという妾を主人公とする作品、『ナナ』『脂肪の塊』はいうまでもなく、ゾラとモーパッサン、『リュシー・ペルグランの最期』はポール・アレクシスの短編小説集で、アレクシスはゾラの信奉者として、ユイスマンスと同じく『メダンの夕べ』に作品を寄せている。モーパッサンの『脂肪の塊』もこの作品集に発表されている。『娼婦エリザ』は『娼婦』 の本文中にもう一ヵ所出てくるだけだが、コルバンの「原注」をたどっていくと、十九世紀後半の娼婦の生態とハビトゥスを浮かび上がらせるに際して、このゴンクールの作品を大いに参照しているとわかる。
 
 脂肪のかたまり (岩波文庫)

 また『ナナ』が挙げられているのはコルバンがエリザと異なる高級娼婦たちにも言及しているからで、彼女たちはドゥミ=モンデーヌ、ファム・ギャラント、舞台の女、夜食相伴の女(スープーズ)と呼ばれている。彼女たちの顧客は外国の貴族、金融界や産業界の大ブルジョワ、若い新進ブルジョワジー、地方の金持たちで、「舞台の女」=女優のナナもまた高級娼婦に分類されるのである。

 コルバンはこれも「原注」において、「貴族階級の女性は決して、自らの裸身を人に見せなかった。であるからこそ、ミュファ伯爵はナナの肢体にあれほど夢中になったのである」と記している。この「原注」を読みながら、私も『ナナ』の新訳者なので、ゾラの「フランスを淫売屋にしてしまった第二帝政」という言、及びナナの出演するヴァリエテ座の支配人ポルドナーヴが「あなたの劇場」といわれ、ただちに「わしの淫売屋と言って下さい」と応じるシーンを思い出すのである。

 ナナ (ルーゴン=マッカール叢書)

 また同じくコルバンは「原注」で、ナナたちが性的倒錯にまみれた上流階級の男たちがたむろする中に、売春婦として繰り出す場面をプレヤード版のページ数で示しているので、それを拙訳で引いておこう。それはデヴィッド・リンチやピーター・グリーナウェイの映像を彷彿とさせる。

 それからは埃など気にすることもなく、歩道を服の裾で払い、腰を振り、小刻みに歩き、大きなカフェのどぎつい光の中を横切る時はさらに歩みを遅くした。胸を突き出し、声高に笑い、振り返る男たちをじろじろ見つめ、我が物顔に振舞っていた。彼女たちの顔は白く塗られ、真っ赤な唇と瞼の上の黒い墨が協調され、暗がりの中で通りの真っ只中に放り出された十三スーのオリエントの雑貨のような怪しい魅力を放つのだった。

 このようなシーンを含む『ナナ』の第8章は、パリのアンダーグラウンドと売春の実態の生々しさを伝え、「フランスを淫売屋にしてしまった第二帝政」のルポタージュのようでもあり、コルバンが『娼婦エリザ』以上に『ナナ』に言及していることを了承するのである。


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古本夜話1185 テーヌ『英文学史』と『文学史の方法』

 ずっとゾラにふれてきたので、彼に大きな影響を与えたとされ、本探索1177で金森修も挙げていたテーヌ『英文学史』も取り上げておこう。

 テーヌの『英文学史』は一八六三年にアシェット書店から三巻で出版され、六四年に一巻が加えられ、六九年に五巻に分かれたれ、定本化されている。ゾラは一八六二年に取次も兼ねるアシェット書店に勤め、翌年にはその宣伝部主任となり、テーヌ、ミシュレ、サント=プーヴなどとも知り合い、六四年には処女短編集『ニノンへのコント』、六五年には長編小説『クロードの告白』(山田稔訳、『世界文学全集』16所収、河出書房新社)を刊行している。つまりゾラはテーヌの『英文学史』を近傍に置き、その出版と併走するようにして、デビューを飾っていたことになる。ちなみにダーウィン『種の起源』フランス語版は六二年、クロード・ベルナール『実験医学序説』の出版は六四年で、ゾラの文学者としての誕生にはそれらの著作が寄り添っていたのである。

f:id:OdaMitsuo:20210803205401j:plain:h110 (『クロードの告白』) 種の起原 上 (岩波文庫)  実験医学序説 (岩波文庫 青 916-1)

 テーヌの『英文学史』は現在に至っても全訳されていないけれど、その第一巻の序論を中心とする翻訳は昭和七年に岩波文庫で出ていた。それは『近代出版史探索Ⅳ』601の瀬沼茂樹による翻訳編纂で、イポリイト・テエヌ『文学史の方法』であった。当時瀬沼は同604の千倉書房で円本の『商業全集』の編集に携わっていたはずだ。

文学史の方法 (岩波文庫) 銀行経営論 (1935年) (商学全集〈第18巻〉) (『商業全集』)

 そのことはともかく、瀬沼がテーヌの『英文学史』を翻訳するにあたって、その第一巻の「序論」である『文学史の方法』を選んだのは、それが『英文学史』の簡略なコアとして把握されただけでなく、編集者も兼ねていて、時間的制約は必然だったことから、『英文学史』全巻の翻訳は無理なので、『文学史の方法』が選ばれたと推測される。戦後版において、「序論」以外の「歴史と方法」「スタンダアル」「バルザック」の三編が追加されたのは、訳者の瀬沼にしても、テーヌの紹介者としての物足りなさをずっと感じていたことを示しているのだろう。

 だが逆に読者からすれば、『文学史の方法』によって、わかりやすくテーヌの『英文学史』のエッセンスにふれることができたのではないだろうか。テーヌはドイツやフランスにおける歴史学の変化が文学研究に起因するとして、次のように始めている。

 文学作品なるものが単なる想像の戯れでもなければ、熟しやすい頭から創りだされた独りぼっちの気まぐれでもなく、われわれをとりまく習俗の縮図であり、ある精神状態の指標であることが明らかにされた。このことから、文学上のもろもろの記念碑的な作品にもとづいて、数百年も昔に、人間がいかに感じ、またいかに考えていたか、ふたたびその仕方をみいだすことができると結論した。実際にこれを試み、しかも十分な成果を収めることができたのである。

 つまり文学作品の中に見出される「習俗」や「精神」の「感じ方」や「考え方」を歴史学の重要な問題として位置づけ、そのことを通じて、歴史学の「対象・方法・手段・法則と原因との概念」に変化が生じたことになろう。それは二十世紀のアナル学派に引き継がれていったと思われる。

 このような視座に基づき、テーヌは「歴史的記録は眼に見える具体的な個人を再構成する手段として必要な指標にほかならない」を始めとする八つの事柄を挙げていくわけだが、ここではその五の「三箇の本質的原動力—人種—環境—時代—歴史はどうして心理的力学の問題となるか、どういう時代において予見が可能であるか」に焦点を当ててみる。なぜならば、ここに人種、環境、時代をベースとする「ルーゴン=マッカール叢書」の起源をも見出せるからだ。

 テーヌは人種、環境、時代が三箇の源泉となり、「本源的精神状態」が創出されるとして、それぞれを定義しているので、簡略に抽出してみる。「人種」(la race)とは人間が出生とともに備えている「生具的・遺伝的諸性向」をさし、それらは「気質や体格にいちじるしく現れる差異性」に結びつき、民族によって異なっている。「環境」(le milieu)とはこの人種の生活している場であり、人間は自然に包まれ、多くの人間に取り囲まれながら生きている。そうした源初の永続的な集積に偶発的な「物質的・社会的諸情勢」が人間の持って生まれた性質を毀損したり、補正したりする。それに気候風土も影響を与えているのである。

 また第三の要因として、「時代」(le moment)が挙げられる。人種と環境という内部と外部の原動力の協働が創出してきた所産がその後に続くものを創り出していくのだが、そこには「習得速度」があり、それがいかなる時代をとるかで、その刻印も変わるし、全体の効果も異なってくる。このようにして、「人種」=内部の原動力(le ressort du dedans)、「環境」=外部の圧力(la pression du dehors)、「時代」=既得の推進力(l'impulsion déja acquise)が定義される。それは「一民族の場合でも、一植物の場合でも、同じこと」だとして、テーヌは続けている。

 同一の気候とは同一の土地における同一の樹液は、その植物の継続的な生育段階に応じて、相異なる種々な形態、すなわち芽・花・果実・種子と、生み出していくが、これはちょうど後につづく形態が常に先行する形態を条件として、その先行形態の死滅から生まれてくるというふうにしてである。

 これがゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の発想と創造へと結びついていったと考えるべきだろう。「人種」とはルーゴン=マッカール一族、「環境」とはナポレオン三世がもたらした社会情勢、時代とは第二帝政期に他ならないし、ルーゴン=マッカール一族の「家系樹」こそはその象徴的な体現であったのだ。


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古本夜話1184 水上斎訳『酒場』と木村幹訳『居酒屋』『夢』

 成光館版「ルーゴン=マッカール叢書」は本探索1179『死の解放』、同1180『芽の出る頃』の他に、もう一冊あり、それは水上斎訳『酒場』で、昭和三年十一月の再版とされている。「改訂」と付されているが、それは大正十一年の天佑社版の譲受出版を意味しているのだろう。ちなみに『芽の出る頃』とまったく同じ造本の六九〇ページだが、函がないことが残念だ。おそらく『酒場』のほうも、それなりの美しいものだったように思われるからだ。

f:id:OdaMitsuo:20210803111528j:plain:h120(成光館版)f:id:OdaMitsuo:20210803110843j:plain:h120(天佑社版)

 水上訳は大正十二年の新潮社の木村幹訳『居酒屋』より先駆けていて、その初訳者としての自負もこめた「小序」に、次のように記している。

 『酒場(ラソンムワール)』一篇は酒毒女淫に腐爛せる茶毒的空気に充たされたる巴里の一画を背景として一労働者の家族の凄惨なる生活を描ける一副の絵巻物である。かの作者が畢生の力作たるルーゴンマツカール叢書約二十巻の一部で続いて出版された名作『ナナ』の前篇又は姉妹篇ともみられる可き一大前篇である。

 そして「近頃彼れの作品の頻々として日本に移植せらるゝは吾人の実に歓喜措く能はざる所」という文言も見え、本探索1179で示しておいたゾラの翻訳が大正時代にひとつのムーブメントと化していたことを伝えていよう。それが新潮社の『ナナ』のベストセラー化として結実し、さらに続いていったことになる。したがって、水上は飯田旗軒に続くゾラの翻訳の功労者の位置を占めるといっていい。しかし水上は『日本近代文学大事典』に立項も見出されず、『芽の出る頃』の関口鎮雄と同様にプロフィルが定かでない人物であった。

f:id:OdaMitsuo:20210723104645j:plain:h110(『世界文芸全集』7)

 ところが黒川創の『国境[完全版]』(河出書房新社、平成二十五年)を開き、冒頭の小「漱石・満洲・安重松-―序論に代えて」を読んでいると、夏目漱石の手紙の中に、『ボヴァリー夫人』の訳者としての水上がいきなり出てくる。漱石は明治四十二年に満州と朝鮮を旅行した際に、『満洲日々新聞』の新聞小説に、水上の『ボヴァリー夫人』訳を取り決めてきたことを報告し、連載のために引き続き翻訳を慫慂しているのである。

国境 完全版

 その手紙を引用した後、黒川は水上のプロフィルも提出しているので、それを引いてみる。彼は薺(ひとし)の表記を採用している。

 手紙の相手、水上薺は、一八八〇年(明治一三)生まれ、東京帝大文科(英文学専攻)を一九〇五年(明治三八)に卒業した青年であり、第一高等学校時代から小山内薫と同級で、大学在学中には“水上夕波”との筆名で、「読売新聞」日曜付録、「帝国文学」「明星」などに、テニスン、シエリーバーンズ、ワーズワースなどの英詩の翻訳をさかんに寄せていました。(中略)
 大学卒業後、水上の関心は、教員生活の傍ら、ツルゲーネフ、モーパッサン、アナトール・フランスら、大陸作家の小説に移っていきました。当時、日本の知識層の青年たちの海外文学との接触が、大抵そうだったように、彼も、これらの作品を翻訳するには英語版からの重訳でした。加えて、「帝国文学」や「心の花」に、自伝的な自作小説を発表したりもしていました。

 これで水上が漱石の教え子で、『満洲日々新聞』に水上夕波名で初邦訳『ボヴァリー夫人』を、明治四十三年一月から四月にかけて連載した事情と経緯がわかる。だが黒川はそれが植民地の新聞だったこと、水上が出版の世界から姿を消してしまったこともあって、ほとんど知られていないと述べている。

  しかし水上は、成光館版の『酒場』が昭和に入ってからも重版されていたことを考えれば、その後も出版の世界に属していたと見なせよう。だがそのような大正時代の訳者のニュアンスは水上より二年遅れて、大正十二年に新潮社から『居酒屋』(『世界文芸全集』11)を翻訳刊行した木村幹にもいえる。だが彼のほうは『日本近代文学大事典』に立項を見出せるので、それを引いてみる。

 木村幹 きむらもとき 明治二二・一・一〇~?(1889~?)小説家、翻訳家、一高を経て東京帝大にすすみ、政治科、仏文科を二年ずつ在学。はじめ豊島与志雄、新関良三らと「自画像」に拠り、ついで佐藤春夫らの星座同人となり、創刊号に『銀座の帰り』(大六・一)『半処女』(大六・二)などを発表。創作集『駒鳥の死』(大八・三)が発禁となる。新聞記者なども勤めた。ゾラの『居酒屋』『夢』などを訳し、またジョルジュ=ペリシェーの『最近仏蘭西文学史』(大一二)などの著書がある。

 木村にしても水上と同じく、没年は不明のようだ。木村の『居酒屋』はフランス語からの訳で、重訳ではない。だが「訳者序」において、「食はんが為めに倉皇として辛くも成し遂げた、この訳書」、また「私は現在のミリユウにも翻訳業にも、出来る事なら早くおさらばを告げたい人間だ」との言が見えている。どのような翻訳に至る経緯と事情が絡んでいるのかは不明だが、私は『夢』を『夢想』として訳した者でもあるので、木村訳『夢』(『世界文学全集』19所収、新潮社)を詳細に参照し、同巻の『ナナ』と並んで、拳々服膺させてもらった。それが名訳だと感嘆したことがあったので、それらの言をそのまま受けとめるわけにはいかない。いずれ木村の小説のほうも読んでみたいと思う。

f:id:OdaMitsuo:20210803165141j:plain:h110(『世界文学全集』19)夢想 (ルーゴン・マッカール叢書)

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古本夜話1183 伊佐襄『正しい英語の知識』とユスポフ『ラスプーチン暗殺秘録』

 前回の伊佐襄と高橋襄治に関してもネット検索したところ、後者はヒットしなかったけれど、前者には『ラスプーチン暗殺秘録』や『正しい英語の知識』という訳書、著書があるとわかった。そこでこれらも早速入手することになった。
 
 先に『正しい英語の知識』を示せば、並製四六判、一四〇ページの英語学習書である。なぜかこの種の書に不可欠な著者の経歴が付されていないが、その「序」はあり、「英語を話し、読み、書くといふことが、今、どのやうに差し迫つた必要事であるかは、こゝに贅言するまでもないこと」と始まり、それが敗戦、占領下の一年後の「1946、8月」の日付で書かれているのは、まさに英語が「差し迫つた必要事」となっている社会状況と伝えているのだろう。
 
 前年には戦後最大のベストセラー『日米会話手帳』(誠文堂新光社)が出され、それに続いて類書も続出し、これらも十万部を超えるベストセラーになったとされる。それらの出版事情に加えて、『正しい英語の知識』の第一編「名詞」の最初の例文が「我等は日本人だ」の訳がWe are Japaneseとして出てくるのは象徴的である。

f:id:OdaMitsuo:20210808120342j:plain:h100 (『日米会話手帳』)

 この例からわかるように、『正しい英語の知識』は日本語の英訳事例集といっていいし、伊佐のかなり年期の入った英語の実力をうかがうことができる。この出版社は発行者を金子貞俊とする日本橋区堀留の美和書房で、昭和二十二年二月に刊行されている。金子と美和書房はここで初めて目にするが、印刷は研究社印刷所とあることからすれば、金子は研究社の関係者だったとも考えらえる。

 それだけでなく、美和書房という社名も気にかかる。拙稿「真善美社と月曜書房」(『古本探究』所収)において、前者の「アプレゲール・クレアトリス」叢書の『不毛の墓場』の馬淵量司にふれ、彼が昭和二十六年にポルノグラフィの翻訳出版や『近代出版史探索』84の岡田甫の著書などを主とする美和書院を設立していることを既述しておいた。美和書房と一字しかちがわないことからすると、何らかのつながりを想定してしまう。また訳者として伊佐も加わっていたのではないかと思ってしまう。

 『ラスプーチン暗殺秘録』のほうは昭和五年に芝区桜田鍛治町の大衆公論社から出され、発行者は森川善三郎となっている。こちらも双方とも未見だったが、奥付裏に既刊、近刊書七冊が掲載されているので、それらを挙げておく。富士辰馬訳『アメリカは如何に日本と戦ふか?』、向坂逸郎、鳥海篤助共訳『インテリゲンチア』、前田河広一郎『評論集「十年間」』、田中運蔵『赤い広場を横ぎる』、R・W・ローワン、早坂二郎訳『国際スパイ戦』、檜六郎『中・小商工農業者は没落か?更生か?』、猪俣津南雄『没落資本主義の「第三期」』である。原著者名がないのは記載されていないからだ。

f:id:OdaMitsuo:20210808163204g:plain(『インインテリゲンチア』)f:id:OdaMitsuo:20210808165840j:plain:h120(『赤い広場を横ぎる』)

 いずれこれらに言及する機会もあるだろうから、ここでは『ラスプーチン暗殺秘録』にしぼりたい。同書は旧公爵ユスポフ著で、ラスプーチンと同じく口絵写真にそのポートレートも見え、その「序」で、暗殺も含めた「ラスプーチンに関する思ひ出を、公にする」と述べている。伊佐も「訳者の言葉」として、ロシア帝政末期に「ロマノフ王家に現はれた妖僧ラスプーチンの存在ほど、怪奇にして、而も悲劇的なものはない」と記し、著者にも言及している。

f:id:OdaMitsuo:20210803102535j:plain:h130

 著者ユスポフ公は、この変慳極まりなき妖術師ラスプーチンの心臓に、拳銃を放つた最初の第一人者である。即ち、ラスプーチン暗殺事件の直接下手人たる点に於いて、その既述の正確を保証する。また、著者が、ロシア皇族中稀に見る才筆の士たる点に於いて、その文章の流麗、平明を裏書く。

 ユスポフはロシア皇帝の縁戚に連なる者として、ラスプーチンと接するうちに、「此の天才的悪漢の手から、露西亜の運命を救ひ出す為めには、極端なる手段に訴ふる必要がある」との結論に至る。自ら経験したラスプーチンの魔力とは降神を伴うような催眠術であり、皇帝一家に対しては病気を治癒する天賦の才だった。しかもそれはチベット伝来の霊薬とシベリアの森からもたらされた秘薬によるものだった。

 そしてユスポフは少数の同志と暗殺計画を実行することになる。それは毒殺を想定していたが、ラスプーチンに毒は効かず、銃殺することで計画は成就したかに見えたが、ラスプーチンは不死身の存在のようにして立ち上がってくるのだ。さらなる銃撃によってラスプーチンの死はようやく見届けられ、その死体は布に包まれ、ネヴァ河に投げこまれる。これらの暗殺のディテールは当事者ならではの緊迫感を保って報告され、このユスポフの一冊をベースにして、後年の様々なラスプーチン伝説や物語が編まれていったとわかる。

 『ラスプーチン暗殺秘録』を読みながら想起されたのは、『近代出版史探索Ⅳ』730のハルヴァ『シャマニズム』であった。この「シベリアの金枝篇」(田中克彦)はラスプーチンがシベリアを出自とするシャーマンだったのではないかとの思いを生じさせた。そしてラスプーチンそのものこそが、ヨーロッパ近代とロシア革命の狭間において出現した、前近代的異物、それもアルタイ諸民族のシャマニズムがもたらした「密教」的魔術師のような存在だったのではないだろうか。それゆえに暗殺による排除という運命をたどったとも考えられるのである。

シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像

 なお平成六年になって、『ラスプーチン暗殺秘録』 (青弓社)が出され、原書のフランス語版は一九二七年にパリのプロン書店から刊行されていることが判明した。伊佐訳は昭和五年=一九三〇年なので、こちらもフランス語版を原書とし、伊佐がフランス語にも通じ、『ジェルミナール』もフランス語から訳されていることの証明となろう。まさに伊佐と同じく、青弓社版にも訳者経歴の紹介がないのだが、この原はまだ未確認だけれど、友人の哲学者だと思われる。

ラスプーチン暗殺秘録

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