出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

 44 FBI と紀ノ上一族

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通
28 浜松の印刷所と長谷川保
29 聖隷福祉事業団と日本力行会
30 日本における日系ブラジル人
31 人種と共生の問題
32 黄禍論とアメリカ排日運動
33 日本人移民の暗部
34 『黒流』のコアと映画『カルロス』
35 石川達三『蒼氓』
36 航海と船の中の日々
37 ブラジル上陸
38 久生十蘭『紀ノ上一族』
39 排日と紀ノ上一族
40 メキシコ人と紀ノ上一族
41 パナマにおける紀ノ上一族
42 紀ノ上一族の少年たち
43 その後の紀ノ上一族


44 FBI と紀ノ上一族

紀ノ上一族(沖積社版)

昭和十八年に大道書房から刊行された『紀ノ上一族』にはこれまで紹介してきた三部までしか掲載されていないのだが、薔薇十字社版には第四部「羅府(ロスアンジエルス)」(初出は「最後の一人」)も収録されているので、やはり言及しておくべきだろう。第三部と第四部の書かれた時代はそれぞれ昭和十七年と十九年で、二年間のブランクしかないのだが、物語の背景は前者が大正九年、後者が太平洋戦争の始まる昭和十六年で、かなり離れていることもあり、紀ノ上一族の第三代に属する人々が中心ゆえか、前三部と異なる記述もかなり見られる。彼らを含めて生残りの一族は団長と組長の息子の亀太、源吾、清次、孫の定松、清之助、源造、亀二郎、弘平の八人で、十月六日は族長ともいうべき松右衛門の命日でもあり、儀礼としてロサンゼルスにいる孫の定松の家に一族が集まり、夕食を共にすることになっていた。
ところが物語は弘平の急死を受け、定松、清之助、源造が葬儀会社のモルグで遺体を確認する場面から始まっている。弘平はひとりだけ徴集に応じ、防衛連隊衛生隊に編入され、伍長として勤務していた。演習中に日射病で死亡したとの通知だったが、彼らが検死すると銃で撃たれた跡があった。彼の死を聞いた時、すでに源吾は言っていた。「(前略)やはり殺(や)られたやのう」。
そして在米邦人に対する特別政治警察の考課、紀ノ上一族の「死の谷(デス・ヴァレー)」における死、パナマでの絞首刑のことが述べられ、続いて次のような記述にぶつかる。

 定松たち第三代を含めた生残りの一族八人が、先代ブラックバーン判事の手で書込まれた「不快なる家族(フアミリー・ノングラダ)」という査定が、今度新たに再組織された米国のゲー・ペー・ウーたる連邦捜査局(エフ・ビー・アイ)にそのまま引継がれていた。(中略)
 在留日本人中、この一族ほど米国の過去の政治的弱点を明瞭に記憶しているものはなく、また、この一族ほど米国にたいし冷淡な態度を示すものも稀で、日米の関係が緊張するにつれ、定松一族の存在がFBIを苛立たせているらしく、父達の代には一時手をゆるめていたF・B・Iが最近また一族になにか迫害の手を差しのばすのではないかと危惧していたが、どうやらそれが事実となってきたらしかった。

明治三十九年から昭和十六年にかけての紀ノ上一族のアメリカにおける受難の歴史がつづられている。アメリカにあってさえも常に米作りに執念を燃やしてきた紀ノ上一族、アメリカの排日の手先たるブラックバーン判事による「不快なる家族(フアミリー・ノングラダ)」という査定、日米開戦が迫りつつある現在、それは定松たち第三代とFBI、その副長になったブラックバーン二世との闘いの様相を帯びるに至り、それがまず弘平の射殺となって表出したのだ。定松たちはそれほどまでにアメリカにおける「日本人の最も不快な一族」になっていたのである。
その理由は「とりわけ第二世の五人が米国にたいして懐いている仇敵感と憎悪感は先天的といっていいほど根深いもの」だったからだ。五人はバアクレーのカリフォルニア大学を卒業したが、定松が日本人相手の病院を開業しているだけで、他の四人は日米必戦の空気の中で、仕事などほとんど手がつかないありさまだった。それは父親たちも同様だった。
そして一族が集まったロサンゼルスの家で、次のような述懐が定松の口から発せられる。

 「われわれの一族もずいぶん亜米利加人に殺されたもんだな……しかし、これからまだまだ増えるが、どうか愚痴だけは言わないようにしてくださいよ。祖父や伯父をあんなふうに殺したうえ、それをわれわれが憶えているという理由でわれわれの存在まで否定しようというのだから、これはもう理窟もなにもありはしない……(中略)反抗しようとすれば出来ないことはない、米国を困らせるぐらいのことはいくらだってやれるが、私はそういうやり方は小さいと思う……それよりも、われわれが甘んじてあいつらの手にかかって、一族の最後の一人まで根絶しになり、そういう事実によって、日本国民の心の中に米国と米国人にたいする大きな憤りを燃えあがらせたいと、私たちは、まあ、そんな風に考えているんです」

ここで語られているのは玉砕の思想だといっていいだろう。アメリカにおける紀ノ上一族の「最後の一人まで」の玉砕、そうすることで一族を根絶しにしたアメリカに復讐を企てるのだ。
その一方で亀二郎の死の知らせが届く。定松がそれを確かめるために出かけたが、夕食の時間になっても帰ってこない。「定松も弘平も亀二郎と同様にもう殺(や)られてしまったのではないか」。だが定松は血にまみれながらも生きて帰ってきた。
十二月一日の朝、定松はFBI から呼び出しを受け、源造の死を知らされた。軍事教練に参加していた源造がコンクリートで生き埋めになり、死んだという報告だった。七日になって、日本軍は真珠湾を攻撃した。

 ついに来るべきものが来た。紀ノ上一族が亜米利加の土を踏んで以来、今日まで三十二年の間、米国と米国人のあらゆる暴虐と迫害をじっと耐え忍んで来たのは、それはただ一つ、この喜びの日にめぐり逢うためであった。

ここにおいて、紀ノ上一族と日本はまったく同化し、お互い「米国と米国人のあらゆる暴虐と迫害をじっと耐え忍んで来た」が、真珠湾攻撃という「この喜びの日」にようやくめぐり逢えたのである。しかも、『紀ノ上族』の連載は昭和十七年から二十年一月にかけてであり、ずっと太平洋戦争に寄り沿っていたことになる。国家も社会も小説も、すべてが「反米」に染まっていた時代だったのだ。しかし第四部にしか玉砕の思想は語られていないことを考えると、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦の全滅、本土決戦という流れが色濃く反映しているのであろうか。

次回へ続く。