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古本夜話191 改造社「ゾラ叢書」、犬田卯訳『大地』、論創社「ルーゴン=マッカール叢書」

春秋社の『ゾラ全集』とほぼ同時期に、改造社から「ゾラ叢書」が刊行されている。だが「ゾラ叢書」も『ゾラ全集』のように二冊だけで終わったのではないにしても、三巻を出したところで中絶してしまっている。それらを示せば、第一篇『獣人』(三上於菟吉訳)、第二編『アベ・ムウレの罪』(松本泰訳)、第三編『大地』(犬田卯訳)である。第一、二篇は訳者からわかるように、英語からの重訳だが、『大地』の犬田訳は前回ふれた武林無想庵訳に先駆けるフランス語からの初訳であり、この『大地』の翻訳出版は農民文芸会の様々な活動におけるひとつの目標にして達成だったと思われる。

獣人(『獣人』寺田光徳訳) 獣人(『ムーレ神父のあやまち』清水正和他訳) 大地(『大地』小田光雄訳)

『大地』は「ルーゴン=マッカール叢書」二十巻の中で、唯一農村小説であり、それは現在の起源としてのブルジョワ都市が形成されていくナポレオン三世の第二帝政期を背景としている。主人公のジャン・マッカールはイタリアのソルフェリーノ戦役の後に除隊となり、ストレンジャーとしてボース平野に流れつく。そこで村の娘と結婚し、土地相続をめぐる争いに巻きこまれ、妻を失い、再び戦場へと戻っていく物語である。ここで描かれているのは大地とともに生き続け、土地に執着し、所有するという欲望につき動かされ、決してストレンジャーを受け入れようとしない農村の奥深い論理に他ならず、結婚もそれに基づいているという現実なのだ。そしてジャンは「ルーゴン=マッカール叢書」第十九巻の大団円ともいえる『壊滅』の主人公として再び登場し、普仏戦争とパリ・コミューンをくぐり抜けた後、再び帰農していくのだ。それゆえに、第十五巻の『大地』は、ゾラの「叢書」にあっても中枢を占める重要な作品で、犬田にとっても満を持した翻訳だったと見なすことができる。おそらくこの翻訳をベースにして、和田伝の『沃土』が書かれたことは本連載185で既述している。
壊滅

犬田もその「序」において、『大地』の第二帝政下の農村の現実を描いたものとして、次のように述べている。

 ゾラの描いた農民は、さうした期間の、さうした段階に生きてゐる彼等だつたのだ。彼等はただ「害虫の巣かなんかのやうに大地にへばりついて」生活してゐる。重き課税と、免れることの出来ない義務との桂梏の下に、一日として頭を天に向けることの出来ない彼等は、ますゝゝ深く地の暗黒の中へと首を縮こめ、突込んで行くよりほかはない。その地の暗黒が、唯一の彼等の避難所であり、僅かに生を盗む場所なのである。

そして犬田はさらにゾラの芸術的態度である「真実を写す」という視点からすれば、この『大地』をまず挙げなければならないとも記している。ここに犬田と農民文芸会が、ゾラと『大地』、及び日本の同時代の農民と農村に向けた眼差しの位相が明らかであろう。

犬田は戦後に遺稿として農文協から刊行された『日本農民文学史』(小田切秀雄編、昭和三十三年)において、それらの戦前の農民文芸運動について語り、これまで本連載でもたどってきたルイ・フィリップ十三周忌記念講演会から農民文芸会の結成、『農民文芸十六講』と機関紙『農民』の刊行、農民文芸会の生々しい分裂とその後の運動、農民文学懇話会の設立などに至る経緯と事情を、忌憚なくレポートしている。しかし残念なことに改造社の「ゾラ叢書」と『大地』の翻訳については何も記されていない。

だが犬田は同書所収の「著者、著作年表」から明らかなように、明治三十四年に茨城県稲敷郡牛久の農家に生まれ、学校を経ることなく、大正六年に博文館編集部に入り、そのかたわらで文筆生活に入り、『土にひそむ』(復刻筑波書林)などの農村小説を書き始め、同八年に後の『橋のない川』を書くことになる住井すゑと結婚している。この経歴からわかるように、犬田は独学でフランス語を習得し、『大地』の翻訳を刊行するに至ったのであり、それは他の農民文芸会のメンバーの外国文学系の訳業と並ぶ成果だと評価するべきだろう。

橋のない川


ここでひとつ私事を語ることを許してほしい。私が論創社版「ルーゴン=マッカール叢書」の訳者であることは既述しているが、実は私がこの「叢書」に引かれたのは他ならぬこの『大地』『ボヌール・デ・ダム百貨店』が収録されていたことによる。それがきっかけとなって、『壊滅』も、またこれまで未訳だった『プラッサンの征服』『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』『パスカル博士』も翻訳することになったのである。そのことを述べた拙文を以下に示す。これは論創社版「叢書」の完結にあたって寄稿を求められ、『図書新聞』(〇九年五月二三日)に「『ルーゴン=マッカール叢書』(論創社版)邦訳完結に寄せて」として掲載したものである。

ボヌール・デ・ダム百貨店 プラッサンの征服 ウージェーヌ・ルーゴン閣下 パスカル博士

おそらく実現しなかったが、吉江喬松にしても犬田卯にしても、「ルーゴン=マッカール叢書」全巻の翻訳刊行を夢見たはずなので、彼らにとっても拙文は多少なりともつながっていると確信するからだ。

なお、早稲田大学、島村抱月、吉江喬松のラインから付け加えておけば、島村と対立し、反自然主義文学運動を後藤宙外と立ち上げた中嶋孤島が「ルーゴン=マッカール叢書」の『生きる悦び』を、大正三年に早稲田大学出版部から刊行している。これは英語からの重訳で、坪内逍遥閲とあり、またフランス原書参照は小倉清三郎らによると記されている。小倉はいうまでもなく、後に相対会を組織することになる。『生きる悦び』は『生きる歓び』として拙訳もある。
生きる歓び

前述のように、最初この『図書新聞』への寄稿を続けて掲載するつもりでいたが、少しばかり長いので、次回をそれにあてる。諒とされたい。

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