横浜郊外の新築高層マンションと工場と新興住宅地の風景から始まる、鈴木光司の『リング』をあらためて読むと、一九七〇年代半ばに角川書店の角川春樹が仕掛けたメディアミックス化による横溝正史ブームから、すでに十五年ほど過ぎていたことを実感してしまう。それは拙著『〈郊外〉の誕生と死』の「序」のタイトルの「村から郊外」ではないけれど、ミステリやホラーの世界が『犬神家の一族』や『八つ墓村』といった「村」から「郊外」へと、必然的に舞台が移行していたことを示唆し、横溝の場合と異なり、まさに同時代の日本社会を映し出していたからだ。
しかもそれは同じ角川レーベルの中での変容であり、本連載18のスティーブン・キングに代表されるアメリカのホラーブームを範とし、それを日本において横溝正史に表象代行させた角川商法が、ようやく本来の同時代ホラーの発見に至ったことを意味していよう。
それに加えて、『リング』のテーマのひとつは「ダビング」、つまり「コピー」と「増殖」であり、この言葉はまさに八〇年代における郊外消費社会の成長と隆盛に直結している。郊外のロードサイドビジネスの多くはコンビニに象徴されるように、フランチャイズシステムによって「コピー」されて「増殖」し、それは現在になって五万店を超える消費社会の中枢インフラを形成することになったのである。
これらのことは後にもう一度言及することにして、この『リング』もまたメディアミックス化され、さらに今世紀になってアメリカでも正続編と二度映画化され、かなり長きにわたって「増殖」化の道をたどったこともあり、よく知られた物語として流通したと思われる。だが小説刊行からもはや四半世紀経ってもいるので、ここでそのストーリーを示しておこう。
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『リング』の始まりの年代の記載はないが、九月五日の同時刻の午後十一時前後に四人の若い男女が同じように苦しみと恐怖の表情を残し、急性心不全などで死亡したことから、物語が作動していく。その中の一人は雑誌記者の浅川の姪であったことから、彼は姪の死に不審を抱き、調査していくと、女子高生と予備校生の四人が親しい関係にあったことが判明してくる。しかも四人は死の一週間前に、箱根のリゾートクラブの貸し別荘に泊まっていた。そこに一泊したことで、姪たちは何らかのウィルスに感染し、それが謎の死に結びついたのではないかと浅川は疑い、リゾートクラブの同じ貸し別荘であるビラ・ロッグキャビンに宿泊する。
ここで描かれているホテル、滞在型別荘、テニスコートなどを備えた「リゾート」は八〇年代のバブル経済の只中で、アミューズメント的なさらなる郊外として開発されたものの象徴であろう。その空前のリゾートブームは佐藤誠の『リゾート列島』(岩波新書、一九九〇年)などで、同時代の日本社会の構造的歪みと根本的矛盾を反映したものとして、批判されていたことも書き添えておこう。
浅川も本能的にそのことに気づき、ホラー映画『十三日の金曜日』の舞台のような丸太小屋だと想像していたが、ホテルは都市型の近代ビルで、そういう雰囲気はなく、ほっとしたけれど、「ここにいる人々は、生きているというニュアンスが感じられない」と思うのだった。それは浅川と物語の行方を暗示しているようだ。だがそこで彼は四人が観たと思しき一本のビデオテープを見つける。ここからが『リング』の真の始まりと考えてもいいので、その場面を引用してみる。
ビデオテープは巻き戻してあった。どこでも手に入るごく普通の百二十分テープで、管理人が言った通り、録画防止用の爪が折られている。浅川はビデオのスイッチを入れ、テープを押し込んだ。テレビ画面のすぐ前であぐらをかいて、プレイを押す。テープが回転する音。浅川は、この中に四人の死の謎を解く鍵が隠されているかもしれないと期待した。ほんのちょっとした手がかりでも発見できれば、それで満足というつもりで、プレイボタンを押したのだ。まさか、危険はないだろうと。雑音とともに画像は一旦激しく揺れたが、チャンネルを操作するとすぐに収まり、ブラウン管は墨をこぼしたように黒色に塗り替えられていった。それが、このビデオのファーストシーンである。……
それらの映像を要約すれば、次のようになる。まず「終りまで見よ」という文字が浮かび、真っ赤な流体が弾け、活火山の景色が現れる。それから火山が爆発し、「山」という漢字が読め、二個のサイコロが鉛のボールの中を転がっている。次に老婆が登場し、意味不明の方言で語りかけ、消えてしまう。すると生まれたばかりの赤ん坊が画面いっぱいに広がり、それも消えると、百個ばかりの人間の顔が現われ、憎しみと敵意のこもった「詐欺師」「嘘つき」というざわめきが聞こえ、それらの顔は数百個に分裂増殖していく。その画面が変わると、古いテレビが映り、そこには「貞」という文字が浮かんだ。続いて急に男の殺意のこもった顔が現われ、その肩は肉がえぐられ、血が流れ、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえ、画面の中央に浮かぶ満月から拳大の石が降り、あちこちに鈍い音を立ててぶつかってくる。そして最後に白い文字が浮かんでは消える。「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」と。
そこで画面はがらりと変わってしまう。見慣れたテレビのコマーシャルで、最初に見た四人、もしくはそのうちの誰かが悪戯心をおこし、重要な部分にテレビCMをダビングすることで、消してしまったのだ。浅川はパニックに襲われる。実際にこのビデオを観た四人が謎の死を遂げていたからだし、自分もそれから逃れられないと直感したからでもある。しかも逃れる術は消されてしまっていた。唯一助かる方法はこのテープの謎を解くことではないか。彼は別荘からテープを持ち出し、友人の高山に助けを求める。高山は医学部を経て、哲学科の博士課程を終えた、大学の論理学講師で、世界の仕組みを解き明かす超心理学、すなわち超能力やオカルトに通じ、「世界の終わりを見たいと思っている人間」と自称している男である。
浅川と高山のビデオテープ調査によって、次のようなことがわかる。それらを箇条書きにしてみる。
*このテープは四人が泊まるすぐ前に、別荘を予約した家族のうちの男の子がテレビ番組を裏録画したもので、そのままデッキに入れ、忘れてしまったものだが、その番組は浅川たちが見た映像とまったく関係がなく、それは勝手に映像が侵入してしまう電波ジャックによるものだとしか考えられない。
*火山は三原山で、戦後四回噴火している。
*老婆の方言は大島の南端のもので、標準語に直すと、身体の具合はどうだ。よそ者には気をつけろ、来年子供を産むのだから、おばあちゃんのいうこともよく聞いておけという意味。
*この映像には黒い幕が頻出することから、これはテレビカメラや機械のレンズによって撮影されたものではなく、人間の網膜に映ったもので、黒い幕は目を閉じた瞬間を意味する。つまりある人間の五感が録画した映像に他ならない。
*超能力実験者リストから大島出身の女性を探し出すと、その名前は山村貞子といい、「山」という念写写真が見つかった。
*大島での調査によれば、二十五年前貞子は島を出て、東京の劇団に入り、その後行方不明。母の志津子はT大精神科助教授伊熊と不倫関係になり、貞子を産み、祖母に預ける。その後島に戻り、貞子と一緒に暮らしたり、また島を出たりしていたが、三原山の火口に身を投げ、自殺。
*貞子は小学生の時から予知能力を発揮し、三原山噴火を予言。
これ以上の言及は長くなってしまうし、肝心な事柄はすでに示したので、ここで止める。これらがあの謎のビデオテープに秘められた事実と背景ということになる。しかしここに提出された謎はまさに「増殖」し、『らせん』『ループ』とさらに展開されていくので、これらも『リング』のみならず、三部作の謎の一端でしかない。
だがこうしたストーリーやさり気なく書きこまれた事柄から判断すると、これがカルトとビデオの時代における郊外伝説的ホラーを意図した作品と見なしていいように思う。しかもそれは同時代的状況や日本近代史に記録されている、所謂「千里眼事件」をもふまえている。
まず同時代的状況であるが、浅川が編集に携わる新聞社の週刊誌とは『サンデー毎日』をモデルにしている。二年前に空前のオカルトブームが招来する一方で、浅川が手がけた「現代の新しい神々」の教祖影山照高の一件で、深刻なトラブルが起きたとされているが、これは八九年に『サンデー毎日』が繰り広げた「オウム真理教の狂気」と題した連続告発キャンペーンに対して、オウム側が嫌がらせと告訴に及んだ事件を想定しているのだろう。こちらは『神々のプロムナード 』(講談社、二〇〇三年)として提出されることになる。
謎のテープのヒロインともいえる貞子のキャラクターとその来歴、及び周辺関係者は、明らかに先述の「千里眼事件」から召喚されている。これはかつて私も「心霊研究と出版社」(『古本探究3』)で書いているが、明治四十三年に東京帝大助教授福来友吉などによって行なわれた、千里眼女性とされる御船千鶴子の透視実験のことである。彼女は不知火の予知、海に沈んだダイヤの指輪の発見、有明海の炭層の透視といった千里眼を発揮し、その能力が知られるようになり、福来による実験へと至るのだが、成功と詐術の評価の狭間で苦悩し、自殺へと追いやられている。彼女の短かった生涯、及び福来との関係は光岡明の『千里眼千鶴子』(文藝春秋)に詳しい。これは忘れていたのだが、拙稿において、「鈴木光司の『リング』を始めとする現代の『怪談』も、明らかに『千里眼事件』にその源を仰いでいる」との既述を見出したのであるけれど、この見解は今でも変わっていない。
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それから忘れてはならないのは『リング』に挙げられている『十三日の金曜日』を始めとする多くのホラー映画で、これらがビデオレンタルの隆盛の時代を背景に、広範かつ多種多様に観られ、受容されていた事実を告げていよう。八〇年代に立ち上がったビデオレンタルは数万店に及んだとされるが、徐々に淘汰され、九〇年代はCCC=TSUTAYAとゲオの制覇へと向かい始めようとする時代であった。つまりこの二社の店舗が同じように「増殖」を繰り返していた。
それは他の業種のロードサイドビジネスも同じで、日本全国各地の風景を均一化、画一化させる装置となっていったのである。『リング』に示された、ダビングしてそのコピーを誰かに見せなければ、テープを観た人間は死んでしまうというメカニズムと同様なことを物語っているようであり、それは郊外消費社会の成長のメカニズムといっていい。それゆえにビデオは終焉し、現在ではDVDになっているが、『リング』は現在のメタファーのようでもあり、今でも「怪談」たりえているように思われる。