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混住社会論45 ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)

コレクター


前回ジョン・ファウルズ『コレクター』小笠原豊樹訳)にふれたが、一九六三年に発表されたこの小説も、その背景にイギリスの郊外の問題が秘められている。ただそれは邦訳を読んだだけではわからない。といって小笠原訳が悪いわけでなく、これは名訳だといっていい。それでもやはり時代の制約は生じてしまうのである。

『コレクター』において、「郊外」という言葉が出てくるのは最後のところで、「ルイースの町の郊外はとてもきれいだ」との一ヵ所しかない。この原文は“The country round Lewes is very pretty.” でThe country が「郊外」と訳されているとわかる。これは私が言及しようとする「郊外」とは異なるもので、Lewesを「ルイースの町」としたために、「田舎」が「郊外」に当てられたのだろう。

このThe country から連想されるのは、原タイトルをThe Country and the City とするイギリスの批評家レイモンド・ウィリアムズの著書『田舎と都会』(山本和平他訳、晶文社)である。これは十六世紀から現代に至る「田舎」と「都会」のイメージの成立と歴史を、文学や社会思想をテキストとし、また「田舎」を出自とするウィリアムズの体験と思考も深く投影され、イギリスの「田舎」と「都会」についての、多彩なパースペクティブを備えた一冊を形成している。
The Country and the City

この七三年に刊行されたウィリアムズの『田舎と都会』において、ファウルズとほぼ同世代のSF作家J・G・バラード『時間都市』(宇野利泰訳、創元推理文庫)まで挙がっているのだが、ファウルズと『コレクター』は見出すことができない。『コレクター』『田舎と都会』の参照テキストとしての応用も可能だったと思われるだけに、とても残念な気がする。だがそれが回避されたのは、「田舎」や「都会」と異なる第三のトポスのように「郊外」が揺曳していることに気づいたためかもしれない。
時間都市 『時間都市』

そのような回避は六八年に制作されたウィリアム・ワイラー監督、テレンス・スタンプサマンサ・エッガー共演の映画も同様で、原作における「郊外」は姿を見せておらず、The country をそのまま「田舎」として描いている。そのことはまた、映画が小説『コレクター』の半分を占めるミランダの日記を捨象して成立したことも関係しているのだろう。
コレクター上

また一九六〇年代のイギリスにあって、郊外は出現していたものの、それほど注視すべきトポスではなかったとも考えられる。それを示すように、商業や行政機関の発展や人口分布政策の一環として、「近郊住宅地、ニュータウン、工業団地などが農村地域、半農村地域に開発されるようになって、古い意味での都会からの離脱という重大な変化が見られる」にしても、「英国のような社会では田舎と都市の比率はこのところ安定している」とウィリアムズは述べているからだ。

さてこれからは私の仮説を述べてみよう。ウィリアムズが『田舎と都会』でたどってきた特有の歴史の中にあって、アメリカがそうだったように、戦後になってイギリスでも郊外が出現してきた。本連載における日本の郊外化と同様に、それは人口増加、都市化、産業構造の転換によって、必然的に生ずる後期資本主義下の現象と見なすことができよう。

しかしそこで起きる物語は「田舎」や「都会」のものとは異なり、それを郊外のひとつの寓話として提出することが『コレクター』の秘められた意味であったかもしれないのだ。いってみれば、『コレクター』とは現代のストーカーを先駆的に描いてしまった作品と考えることもできるし、それは郊外化という社会状況とも無縁ではないのである。

そのことはファウルズがアフォリズム的哲学エッセイ『アリストス』小笠原豊樹訳、パピルス)の冒頭に書き記した次のような問いとも通底していよう。その「私たちは今どこにいるのか。この状況は何なのか。この状況を司る者はいるのか」という問いをまず置き、『コレクター』の世界へと入っていこう。
アリストス

フレッグは幼くして父を自動車事故で失い、母は家出してしまったゆえに、伯母に育てられ、市役所の税務課に勤めていた。趣味は蝶の収集で、これは本連載10『ロリータ』の著者のナボコフと同様である。これは偶然というよりも、フレッグはロリータに魅せられたハンバートの系譜に連なる存在として造型されていることを暗示しているのかもしれない。それはともかく、フレッグは学歴もなく、上流階級の人間でもないが、フットボール賭博で大穴を当て、大金を掴む。

ロリータ コレクター上

彼には憧れの女性がいた。それはミランダという名前の医者の娘で、寄宿学校を出て、ロンドンの美術学校に通っていた。彼女の家は市役所の前にあったために、帰省していた時にはその姿が毎日のように見られた。彼は彼女と結婚することを夢想していたが、それがただの夢に過ぎないとわかっていた。しかし大金が入ったことで、それが変わっていく。「彼女をとらえて、ぼくの車で人里離れた家へ運び、そこに軟禁しておく。彼女はだんだんとぼくを知り、ぼくを好きになり、そのあたりから夢は二人の夢になる。モダンな家、結婚、子供たち、などなど」という夢を見始める。

そして新聞の不動産欄で、サセックス州ルイースの別荘の売り物件広告を見つける。それは「古い別荘、魅力的環境、広い庭、ロンドンより車で一時間、最寄りの村まで二マイル……」というものだった。その別荘は海軍の元提督が持主で、モダンな家にはほど遠く、古い家だったが、広い地下室が備わっていた。彼はその別荘を買い、改装し、とりわけ地下室にはカーペットを敷き、家具を入れ、ミランダのための服も買い、万全に整えた。

そうしてロンドンに戻り、彼女の住所を突き止め、車とクロロホルムを用意し、蝶を収集するかのように、彼女をつかまえ、クロロホルムのガーゼを口と鼻へ押しつけた。身体から力が抜けた彼女を車に引きずりこんだ。「彼女はぼくのものだった、ぼくはとつぜんひどく感激した、とうとうやったのだ」。車は別荘へと向かい、フレッグは「彼女をお客に呼ぶ」ことに成功したのだ。

ここに至る過程で、『コレクター』における物語の前提が様々に散種されている。フレッグの両親が不在で、伯母たちとの暮らし、及び学歴を有さない下積みの公務員という立場、ミランダの医者の娘で、美術学校の女子学生という身分は労働者と上流階級を示し、階級と性に関するコンプレックスを浮かび上がらせ、それこそこれからの、「お客と主人」という闘争と葛藤を予兆させていることになる。またフレッグの階級コンプレックスは新聞などで「階級の消滅」が記事になっているにもかかわらず、ロンドンという都会、そこのホテルや高級レストランが自分を見下していると思えてならなかったという記述から明らかだ。それに対し、「都会」ではない「田舎」の別荘はフレッグに幸福をもたらしてくれるのだろうか。

ウィリアムズの『田舎と都会』を単純に『コレクター』にあてはめてみれば、フレッグの階級と別荘は「田舎」、ミランダとその文化環境は「都会」を表象し、フレッグ=「田舎」がミランダ=「都会」に憧れ、誘拐して地下室に閉じこめ、それから起きていく「田舎」と「都会」の断絶とすれちがい、両者の文化や階級闘争を描いたものとして読むことができる。またそのように読まれてきた。

コレクター
しかし『コレクター』の半分を占める、地下室でミランダが秘かに記した日記に注視してみると、ミランダとその文化環境はそのような単純な図式に当てはまるものではなく、さらに多様な解釈が浮かび上がってくる。これは挙げていけばきりがないほどなので、ここではひとつのことに限定する。それはいうまでもなく「郊外」をめぐってである。彼女は日記に、芸術家G・Pから学んだことを8項目にわたって箇条書きにしている。それらはミランダとロンドンにおける芸術、思想、政治的背景を伝えるものであるのだが、その7番目の項目は彼女とフレッグに共通するものだと見なせるので、それを引いてみる。

 しかし自分の過去と妥協してはいけない。創り手としての自分の前に立ちふさがる過去の自分を切り捨てるべし、田舎者ならば、(私の父と母はそうだった―田舎を馬鹿にしていたのはただの照れ隠しだ)田舎を投げ捨てること(焼き捨てること)。労働者階級の出身ならば、自分のなかの労働者階級を焼き捨てること。そのほかどんな階級に属する場合でも同様。なぜなら階級とは原始的で愚かなものだからだ。

この中の「田舎者ならば」から始まる一節の原文は次のようなものである。

If you’re suburban(as I realize D and M are―their laughing at suburbia is just a blind),
You throw away (cauterize) the suburbs.

つまり邦訳で「田舎者」「田舎」とされているのはthe country, the countryman ではなく、suburban,suburbia, suburbsであり、それはまさに「郊外」「郊外居住者」を意味していることになる。これはミランダとその両親が上流階級ではなく、単なる「郊外生活者」だという告白に他ならない。

それはまたフレッグも同様なのだ。ミランダは彼を「惨めったらしい田舎の非国教派の世界、哀れな中産階級、やたらに上流階級を模倣する醜悪で臆病な連中」の「犠牲者」だと見なす。ここでも原文を参照すると、「田舎の」はsuburbanとなっている。ここまできて、これまで明らかでなかったフレッグとミランダの出自が、「郊外」であることに気づかされる。フレッグばかりか、ミランダも彼のことを知っていたのは同じ「郊外」で成長し、暮らしていたからだとわかる。そしてフレッグは「郊外」の「新興階級」=the New People の一員であり、彼女は自由と創造の芸術の側に立ち、偽善と無知の表象たる彼らを憎むのだ。

「《新興階級》が憎い、その自家用車、その金、そのテレビ、その馬鹿げた俗悪さ、ブルジョア階級の愚かな模倣」というすべてに対して。それに「新興階級」とは魂がなく、「新しい貧困のかたち」で、「何もかも大量生産。何もかもマッス」(Everything mass-produced.Mass-everything)にして、「田園を強姦するように」(Raping the countryside)、「すべてを腐らせ、すべてを俗悪なものに代えてしまう」(Corrupting everything.Vulgarizing everything)からだ。原文を補ったのは八〇年代の日本の郊外化も同様なイメージを否応なく伴って進行したからだ。

ミランダは自らも「郊外」の「新興階級」出身であるにもかかわらず、芸術の世界に入ったことで、少数者に属していると考えるが、フレッグは本質的に「新興階級」の一人でしかないと見なす。このような二人の出自と関係から『コレクター』を再読してみると、「田舎」と「都会」、上流階級と労働者階級といったシンプルな図式ではなく、それこそイギリスの戦後においても出現していきた「郊外」と、台頭してきた「新興階級」の問題が浮上してくることになる。

イギリスの郊外化についての文献やデータは片木篤の『イギリスの郊外住宅』(住まいの図書館出版局、星雲社)しか見ていないのだが、ファウルズはアラン・シリトーなどの「怒れる若者たち」の後にデビューしたこともあり、そのようなイギリス社会の現実を注視し、「田舎」や「都会」とは異なる「郊外」を背景とする物語『コレクター』も構想されたと思われる。したがってミランダの死とフレッグの続いていく犯行にこめられたメタファーは、さらに多様な読解へと誘っているかのようだ。

なお原文テキストはJohn Fowles,The Collector(Back Bay Books,1997)を使用した。

イギリスの郊外住宅 『イギリスの郊外住宅』 The Collector

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1