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古本夜話358 洸林堂書房と宇田川嘉彦『フランドル画家論抄』

本連載352のところで、昭和十年代後半における大判美術書の出版の全貌はつかめていないと記しておいた。それは流通や販売も含めてだと既述してきた。それでもその一端を明かしているというか、経緯と事情がわかっている一冊があるので、それに言及してみる。ただしこれはアトリエ社の本でもないし、私も復刻は読んでいるけれど、原本は所持していない。そのタイトルは『フランドル画家論抄』である。

これは昭和十九年に宇田川嘉彦の名前で、洸林堂書房から出され、一九九八年に刊行された講談社『埴谷雄高全集』第二巻に初めて再録されている。この本は所持していないけれど、かつて古書展で何度も見かけているし、古書目録で注文したこともあったのだが、入手できないままになっている一冊である。『全集』の解題には判型が示されていないにしても、定価が六円であること、それと記憶からして大判に間違いないだろうし、その時代の美術書に属すると考えていい。
埴谷雄高全集第二巻 (『埴谷雄高全集』第二巻)

埴谷は昭和十五年から十九年の間に三冊の本を出していて、それらは翻訳書、準翻訳書と呼んでいいだろう。その三冊目について、埴谷は『影絵の世界』平凡社)の中で、次のように述べている。
影絵の世界

 第三の、つまり、最後の書物は、物質の窮乏が私たちの目に立ちはじめた昭和十九年に出され、《フランドル画家論抄》と題されていた。ブリューゲル父子、ハルス、ブラウエル、テニエー、ルーベンス、ヴァン・ダイクなどの写真版をかなり多量にいれたその書物は、私がドイツ語の絵画史を参考にして忽慌として書きあげたもので、著者名は宇田川嘉彦になっていた。なぜこういう美術書を 〈つくらなければならなくなったか 〉といえば、そのころ私たちがよく訪れていた中野駅前の一古本屋が、主人の出征後、美術関係の出版をするようになり、私も相談された結果、エミール・ヴェルハーレンの《ルーベンス》の翻訳を引き受けたことに発端する。

この古本屋が洸林堂書房で、埴谷たちの同人雑誌『構想』は当初赤塚書房を発売元としていたようだが、後にここに移ったことから生じた関係だと思われる。

それはさておき、拙著『書店の近代』平凡社新書)でもふれているし、本連載でも繰り返し言及しているように、昭和十六年に一元的出版団体の日本出版文化協会が設立され、流通も、従来の四大取次に代わって国策会社日配による出版物一元配給がスタートする。出版文協(後の日本出版会)は用紙配給の割当権と企画内容の承認権を持ち、いわば生産や流通も公的許認可を必要とするような状況に追いやられていた。

書店の近代

その一方で、用紙割当を得ようとして、出版文協の会員が急増し、十六年には千七百社だったのが、出版に関係するありとあらゆる団体、グループ、個人なども殺到したことで、十八年には倍以上の四千七百社になった。ところがその後の企業整備により、一九年には千二百社に減少し、現実に出版活動を続け、日配を通じて流通させていたのは二百二十余社だという出版状況を迎えていた。これが十六年以後の出版社の置かれた環境であり、その急増した出版社の一社が洸林堂書房だったことになる。

だから埴谷の証言に『全集』の「解題」を補足すれば、洸林堂書房は先に美術書『ロダン』を出したところ、よく売れたので、埴谷に次に何を出そうかと相談した。その時埴谷の手元にヴェルハーレンの『ルーベンス』があったので、それがいいということになり、武田泰淳がいた日本出版会に企画書を出した。ところが同じ企画書が三通出されていて、許可されたのは甲鳥書林であった。この出版社に関しては拙稿「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究2』所収)、及び本連載200などを参照されたい。

古本探究2
それで困ったのは洸林堂書房で、実は企画書の提出とともに、『ルーベンス』の写真版をつくってしまっていて、もちろん破棄する余裕はなかったのである。そこで埴谷は「企画をさらに大きくひろげ、フランドルの画家たち全部を含めるところの一冊の本をつくり、そのなかの部分としてルーベンスを押しこめてしまう案」を出した。すると洸林堂がフランドルの画家のことを書いたドイツ語の分厚い原書を見つけてきた。それに埴谷が刑務所時代に読み、所持していた、これもドイツ語の美術書が参照され、『フランドル画家論抄』という一冊の美術書が仕立て上げられたのである。

『全集』にもその写真版は収録され、百三のうちの七十八枚がルーベンスで、確かにこれらをむざむざ破棄することはしのび難かったと理解できるし、その苦心の『フランドル画家論抄』の、後の埴谷をも彷彿させる書き出しだけでも示しておこう。

 精神的なるものの静謐な均衡を伝統的特徴とする中世紀の美術に対して、肉体の自然的原理を強く主張したのがフランドルの絵画を先駆とする近代の絵画なのであった。しかも、フランドルの絵画は北方人の持つ堅実な自然感情をもって人間の肉体を生活的な現実的な地盤へ着実に据え置いたのである。

なお著者の宇田川嘉彦は出征中の洸林堂主人の名前であり、これを遺書のつもりで書いたというストーリーをつくり、著名な美術評論家で、戦後イスラエル美術館の館長を務めた山田智三郎に序文を依頼し、それで出版に至ったという。これも戦時下における美術書出版のひとつのエピソードということになる。

その後、国会図書館で『フランドル画家論抄』の判型を確認したところ、22cmとあるので、菊判だったことになり、四十年前の古書展での記憶があてにならないことを思い知らされた次第だ。

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