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古本夜話1350 宮嶋資夫と『禅に生くる』

 神近市子の近傍にいた宮嶋資夫の『坑夫』は復刻版が出されていないようなので、『日本近代文学大事典』における書影しか見ていないが、その後、彼が仏門に下り、「蓬州」として著した『禅に生くる』は浜松の時代舎で入手している。四六版上製函入で、昭和七年十一月に大雄閣から出版され、購入した一冊は同八年一月第二十版とある。



 宮嶋の自伝『遍歴』『宮嶋資夫著作集』第七巻、慶友社)の「月報」に文化人類学者の岩田慶治が「最後の転換」という一文を寄せ、『禅に生くる』が「往年のベストセラー」だったと述べているのは、わずか数ヵ月での版の重ね方から了承させられる。岩田は京都の天龍寺慈済院に下宿し、その隣室に出家した宮嶋も住んでいたのである。版元の大雄閣は『近代出版史探索Ⅲ』505で既述しておいたように、高楠順次郎の息子の高楠正男が立ち上げた出版社で、タゴールの思想小説『ゴーラ』『同Ⅴ』933のシルヴァン・レヴィ『仏教人文主義』などを刊行し、『遍歴』にも彼の依頼で『禅に生くる』が書かれたと記されている。

(続、『禅に生くる』)
 
 『禅に生くる』の巻末出版目録を見ると、高楠順次郎の著作を始めとする仏教書が並んでいるが、そうした高定価の専門書ばかりでなく、普及版廉価版の「大雄叢書」、『禅に生くる』のような体験記や随筆、まったくジャンルの異なるローマ法や会計法も見られ、大雄閣の出版企画が変化しているとわかる。それに加えて、奥付は刊行者名が高楠ではなく、酒井淳三となっているのはそのことと関連しているように思われる。それからこれも先の「月報」の宮嶋秀「戦時中の父」で教えられたのだが、昭和十七年に宮嶋は仏教雑誌『大法輪』顧問となり、朝霞市の平林寺から『近代出版史探索Ⅵ』1115の石原俊明社長の神田須田町の持家へと移り住んでいる。宮嶋の『新篇禅に生くる』などが大法輪閣から刊行された事情が判明する。

 (新篇『禅に生くる』)

 宮嶋の場合、その他にも『近代出版史探索Ⅱ』332のアルス版『ファブル科学全集』の訳者の一人、同293の斎藤佐次郎の金の星社からの『たのしい童話集』の出版と特価本業界との関係、拙稿「野依秀市と実業之世界社」(『古本探究』所収)との親交などは、プロレタリア文学というよりもアナキズム人脈を通じてのものだと思われる。それは彼の仏門入りも同様だったのである。

 そうした宮嶋ならではのアナキズム人脈の交流、『坑夫』というプロレタリア文学の先駆者、大杉栄、伊藤野枝、神近市子の三角関係への批判者といったポジションによる視座は社会主義者たちにも向けられ、彼らの利用者的体質をも透視し、『坑夫』創作の頃を回想し、『遍歴』で次のようにいっている。『坑夫』に「序文」を寄せているのが、堺枯川と大杉栄であることをふまえて読むと、それはさらにリアリティを帯びるというしかない。

 (前略)プロレタリア文学が漸く世に認められようとしたのも、その頃からの事であつた。堺、荒畑などといふ人々は、彼等自身文学を愛好するにかかわらず、文学そのものの価値は認めようとしなかつた。ただ、主義のために利用し得るもの、それだけが彼らにとつての存在価値だつた。私も懐疑があつた。主義に熱中し主義のために創作する。文学から見ればそれは、第二義的なものかも知れない。然し作者が真に燃焼してゐればそこに純真なるものが成立するに違ひないのである。純粋の文学からすれば、軌道をはづれてゐるといふかも知れない。が、文学はそれほど狭いものではないわけである。つまらない創作を読むよりも、極端に言へば、資本論の労働価値説を読んでゐる方が、遙かに文学的感興を与へらえるのである。

 ところが宮嶋は『坑夫』以後、文学に燃焼できず、その代わりにアナキズム運動の中にそれを見出そうとするが、いずれの道でも燃焼へと至らなかった。それは宮嶋のみならず、プロレタリア文学につきまとっていた現実であり、出版の困難と発禁処分をふまえた上でいえば、全盛が短かったことへともつながっていったのではないだろうか。

 宮嶋は『禅に生くる』の序で、自分は「こだわる者」だとして、「こだわるだけこだわつた」「結局は対象に反感を持つ」に至り、清算すべきとの結論を得たと述べている。そうして「私の憧憬の的となつたのが、僧堂の生活」「簡素故没の極致」にして、「綿々たる人情の纏ひを許さない場所」ということになる。そのようにして、宮嶋はプロレタリア作家、アナキズム運動家、僧堂の生活者という道を歩んでいったのである。

 戦後になって書かれた『遍歴』(慶友社、昭和二十七年)は宮嶋の「こだわる者」としての自伝で、前述のような三つのプロセスを歩んできた果てのものであるゆえに、他の社会主義者たちとは一味異なる歴史と人物への証言となっていると見なしてかまわないだろう。


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