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古本夜話204 秋田雨雀『国境の夜』、叢文閣「現代劇叢書」、『秋田雨雀日記』

大正期には戯曲の「叢書」も出されている。
大正十年五月に叢文閣から刊行された秋田雨雀の戯曲集『国境の夜』がある。菊半截判の濃紺の上製本で、表題作を含めて四作が収録されている。叢文閣は説明するまでもなく、有島武郎の友人足助素一が営む出版社である。

「国境の夜」は北海道十勝平野における大野家農園の家屋を舞台とする四節の戯曲で、部屋の中央には大きな囲炉裏があり、火が盛んに燃え、大きなランプが吊るされ、テーブル、椅子、小型の金庫が置かれ、北海道の第一期開拓の成功者の生活を浮かび上がらせている。その舞台の左手は雪に覆われた原野で、遠くにやはり雪に包まれた国境の連山が見えている。その舞台装置をラフスケッチした口絵が付されてもいる。

開拓の成功者大野三四郎は苦労した体験から、「他人の生活に立入らない代りには、他人にもお父さんの生活に一歩も立入らせない」という道徳を持ち、家族にも語るが、そのために子供連れの旅行者夫婦を凍死させてしまう。その自責の念から、三四郎は自分の影である覆面者の強盗を悪夢として招き入れてしまい、エゴイスティックな生活とヒューマニズムの問題の論争を繰り拡げ、その挙げ句に子供たちの首を絞める血の縄を渡されるという恐怖に追いやられる。その夢はアイヌの訪問によって覚め、三四郎の昨夜と打って変わった優しい対応に、アイヌは言う。アイヌの心はいつも一つなのに「シャモの心は二つある」と。

『秋田雨雀日記』未来社)の第一巻の大正九、十年のところを読んでみると、「国境の夜」の脱稿、校正、上演などについて簡略にふれられているが、訪ねてきたエロシェンコに読んで聞かせたというエピソードの他に、細かい言及はなかった。しかし『日本近代文学大事典』を引くと、「国境の夜」は秋田雨雀の項で、思いがけずに代表戯曲として立項されていたのである。
秋田雨雀日記 日本近代文学大事典

そしてさらに思いがけないことに、紅野敏郎『大正期の文芸叢書』においても、『国境の夜』が叢文閣の「現代劇叢書」として収録されていたのだ。所持する同書には「戯曲集」とあるだけで、「現代劇叢書」といった記載は見当らなかったこともあり、『大正期の文芸叢書』での掲載も意外だったというしかない。紅野は「現代劇叢書」について、次のように述べている。
大正期の文芸叢書

 入手し難い叢書の一つに叢文閣の「現代劇叢書」がある。(中略)
 たびたび述べてきたことだが、大正文学のトータルな実体を追跡してみると、小説家がしばしば戯曲に手を染め、各自の代表作ともいい得る作品を書いているという事実である。
 大正文学は小説と演劇との蜜月時代と称しても決してオーバアな表現ではない。

そして紅野は秋田の他に長与善郎『画家とその弟子』、千家元麿『家出の前後』、木下杢太郎『空地裏の殺人』の四冊が「現代劇叢書」だと指摘し、書影として千家の『家出の前後』を掲載している。確かに同じ装丁でありながらも、表紙に「現代劇叢書」という表示が見えている。いずれも大正十年の出版だが、『国境の夜』は最初の刊行だったために、シリーズ名が表記されなかったのだろう。

それらを確認するために秋田の日記に目を通してみると、『国境の夜』だけでなく、その前の大正九年四月に『仏陀と幼児の死』、それからしばらく後になるが、同十四年二月に『骸骨の舞踏』が叢文閣から刊行され、秋田の重要な戯曲集が叢文閣の足助によって持続して出されていたとわかる。紅野は大正七年六月の戯曲集『三つの魂』も叢文閣刊行だと述べているが、これは間違いで、こちらは文昭堂であり、定価一円五十銭、印税一割、七百部と三百部の分割払いとの記述が見られる。

秋田と叢文閣の足助との交流は『三つの魂』の上梓以後だったようで、『日記』大正九年一月二十五日のところに、次のように書かれている。

 電車で牛込へでて、足助君を訪い、雑談した。ぼくの作物はもう一歩掘りさげる必要があるといった。足助君の経歴をきいた。一種の理想家で、どこか性格破産者らしいところがある。相場をやった人だそうだ。

この他にも足助に関する記述はあるが、それらはともかく、あらためて大正四年から十五年にかけての『秋田雨雀日記』第一巻を通読してみると、この時代における文学者たちの死の連鎖が刻印され、大正文学が彼らの死の影の下にあったことを実感させられる。それらは大正五年十二月夏目漱石、九年五月岩野泡鳴、十一年七月森鷗外、十二年六月有島武郎、同九月大杉栄の死であり、秋田は彼らの葬式や追悼会にいずれも参列している。そして有島の死に続いて、関東大震災が起きる。

「まるで戦争だ」(九月五日)、「戒厳令―自警なぞでものものしい。朝鮮人虐殺は問題になるらしい」(六日)、「自警団の暴力的行為は驚くのほかはない」(七日)、「死んだ都」(九日)、自らの検束のうわさが立っていることを知り、二十六日に至って、「大杉君銃殺の報」を聞く。続けて平沢計七たちが銃殺された亀戸事件も伝わってくる。それ以後の『日記』関東大震災と大杉たちの「惨殺」は色濃く影を落とし、次のような句が詠まれている。「自然人間を殺し人間人間を殺し秋暮るる」(十月十五日)。

まだ死は続いている。「暁民会の川崎悦行君が市ヶ谷監獄で病死」「青年思想家川崎の死」(十一月十三日)、そして十二月の平沢追悼会、大杉葬儀の後、難波太助による虎ノ門事件が起き、「怖るべき夜」(九月二日)に象徴される大正十二年は暮れていったのである。

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