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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話280 湯川松次郎『上方の出版と文化』と湯川弘文社

前回既述したように、脇阪要太郎は『大阪出版六十年のあゆみ』において、大阪出版業界は自らの日本出版社の創業に加え、湯川弘文社と創元社が立ち上がったことで、大正期に活況を呈したと書いている。

これは本連載276の武士道文庫のところではもれてしまったが、とりわけ湯川弘文社は立川文庫と講談本の中間をねらった美久仁文庫によって、一躍成功したという。脇阪はその創業者について、「湯川松次郎氏は小谷書店の出で、古書と小売の知識は十分に体得した人であったが、この知識を応用して出版界にのり出した秀才であった」と簡潔なプロフィルを紹介しているだけだけれども、湯川と湯川弘文社はそれ以後も頻出し、脇阪の同書の中で最も多く登場している。

小学歴史附図の出版、中等教科書への進出、大阪出版組合の幹部や古書組合の副会長としての役割、日配の成立による大阪の出版社の統合問題、戦後の大阪出版業界の復興、大阪屋設立の発起人など重要な場面には必ずその名前がある。これらの記述だけでも、湯川が出版社、取次、書店といった大阪の出版業界の全分野にわたって活躍したことを示唆している。それに古書との関係から、湯川の名前は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の昭和八年の見切本市にも見えている。だが湯川弘文社の出版物の全貌は明らかではないし、またその社史も全出版物目録も出されていないと思われる。

それでも幸いなことに、日本出版社の脇阪が『大阪出版六十年のあゆみ』を残したように、湯川もおそらく同書を意識し、昭和三十五年に七十五歳で、『上方の出版と文化』(上方出版文化会)を上梓している。この二冊に開成館の三木佐助の『玉淵叢書』(『明治出版史話』として ゆまに書房複刻)を加えれば、「大阪出版三部作」とよべるであろう。

湯川の本はタイトルに示されているように、近世から昭和戦後にかけての大阪の出版文化状況や出版人脈の記述と紹介に重きが置かれ、湯川自身や湯川弘文社に筆を及ぼしているのは、わずかである。だがそのはしばしに「序」で藤沢桓夫がいうところの「関西出版界の最長老」の経てきた道筋が書きこまれている。例えば、「自序」に次のような一節がある。

 勿論、浮世の荒波はなまやさしいものでなかった。背負いの本屋から小売屋・小間物屋、そして赤本出版から雑誌・教科書・文学書・自然科学・人文科学・小説・参考書と数千種に亘る何千万冊になるかも知れぬ書籍を社会へ送り出し、物心ついて書籍屋一筋に本と共に生き本を出版することを唯一の楽しみに六十余年の日月を多忙の中に過して来た(後略)。

この他にもすでに示しておいた東京の数物見切本業界との交際、学習社としての学習参考書、弘文社としての実用書などの出版が語られている。しかし大阪の近代出版史の証言という使命感があるゆえなのか、「何千万冊になるかもしれぬ書籍を社会へ送り出し」てきたにもかかわらず、自社の出版物の詳細やエピソードについては記されずに終わっている。もちろんこのような大阪出版通史も重要だが、もう少し湯川弘文社のことにページを割いてほしかったと思う。

それにこれは私の怠慢もあるのだが、古本屋で湯川弘文社の本を見つけられず、ほるぷ出版が複刻した『新撰童話坪田譲治集』の一冊しか持っていない。ところが昭和十四年刊行の『新撰童話坪田譲治集』は複刻の対象となるだけのことはあって、大判箱入のすばらしい本なのである。当然のことながら、奥付には印刷兼発行者として、湯川松次郎の名前が記載されている。

『名著複刻日本児童文学館治集』第二集収録の向川幹雄の解説によれば、『新撰童話坪田譲治集』は昭和十一年にやはり湯川弘文社から「日の丸標準童話」十二冊の一冊として刊行された『をどる魚』と同じ紙型を用い、判型と装丁を変えたもので、同じ内容であり、また十四の収録作品の半数は『赤い鳥』に発表されているという。だが『日本児童文学大事典』に湯川弘文社は立項されているけれど、「日の丸標準童話」の明細は掲載されていない。

『日本児童文学大事典』
この他にも巻末広告を見ると、サトウ・ハチロー監修の「読物教室」の一年生から六年生までの六冊が掲載され、発行所として東京市神田小川町の住所の併記もあるので、この時代に湯川弘文社も東京に進出していたとわかる。おそらく『赤い鳥』や坪田譲治やサトウ・ハチローとの関係も、東京在住の編集者を通じて成立し、ふたつのシリーズも刊行の運びになったのではないだろうか。だがここで留意しなければならないのは、児童書籍特有の性格にもよるが、『新撰童話坪田譲治集』が入手困難なゆえに複刻されたという事実であろう。

この複刻に示されているように、当時の児童書を収集することは難しく、またそれらを刊行した児童書出版社も多くが不明のままになっている。だからこれは想像するしかないのだが、湯川弘文社が東京に進出したことで、大正期に誕生した近代児童文学は大阪へ伝播されたとも考えられるかもしれない。またひょっとすると、戦前において湯川弘文社は東京の紙型を利用した、大阪の有数の児童書出版社だったかもしれないのだ。

大阪の出版業界は赤本と学参を中心にして立ち上がり、低年齢層の読者を対象とする出版物を得意としていた。立川文庫を始めとする多くの文庫もまた大阪が発祥の地だった。絵本出版のひかりのくにの存在もあるし、湯川弘文社出身のいくつもの出版社が絵本類を手がけているし、そのような土壌があって、戦後のマンガ出版も始まったのではないだろうか。

だがすでに証言者も目撃者もいない時代を迎えてしまっているし、確認することはできず、類推するしかない。湯川がもう少し記録を残してくれたらと悔やむばかりだ。

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