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混住社会論49 いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)

Sink 1 Sink 2


この娘、ただ栗をのみ食ひて、さらに米の類を食はざりければ、

「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親、ゆるさざりけり。
                  『徒然草』第四十段より
 
前々回に続いて、もう一編コミックを取り上げてみる。それはいがらしみきおが〇一年から〇五年にかけて、Web上に連載した『Sink』で、この作品を読んでいると、コミックではなく、フランシス・ベーコンの絵を見ているような思いに捉われる。その画集について、本ブログ「ブルーコミックス論」4042でもふれているが、タイトルも記しておく。それはMichel Leiris,Francis Bacon(Rizzoli,1988)である。

[f:id:OdaMitsuo:20120702130604j:image:h130]『Francis Bacon』画集

『Sink』の舞台となっているのも明らかに郊外のニュータウンに他ならない。しかし主人公といえる山下一家の住むサンタウンの一画は、表紙などに描かれているように、住宅化が進んでおらず、造成地は雑草が生い繁り、まだわずかしか住宅は建っていなかった。それはバブル崩壊後の郊外の開発地のありふれた風景といっていいのかもしれない。

山下家は大学教師の夫、専業主婦の妻、高校生の駿の三人暮らしで、ニュータウン特有の新しい住民である。テレビのニュースで、未成年による殺人事件や火山のことが伝えられていることから推測すれば、同様の事件の頻発と有珠山噴火などは二〇〇〇年の出来事であるので、時代背景は今世紀初頭と見なせるだろう。

『Sink』はまず「台所の流し」が描かれ、始まっていくのだが、名詞の場合はまさにそれを意味しているし、動詞の「沈む」と両義的な含みを持って、タイトルとして選択されたように思われる。その中に入ってしまえば、必然的に「流れて沈む」ことを運命づけられてしまったようなニュアンスがこめられているのではないだろうか。

山下は駅前で異常に首の長い女を見かけ、また続けて校内でも同じように腕が長い男とぶつかってしまった。「異様な体形のヤツ」を目撃したことを同僚の林教授に話すと、彼は山下にいう。「異様なものほどバランスを崩す(中略)。だから人は不幸に巻きこまれる」と。山下は帰宅途中で、バス停に捨てられた煙草の吸い殻や造成地から出た石が増えてきたことに気づく。その翌日、今度は家の前の電柱に自転車がぶら下がっているのを目にする。これも異様な出来事で、明らかに見慣れた風景が変わり始めていた。

その一方で、駿の同級生弓のストーカーで、シンナー中毒の三浦によって、駿はナイフで刺される。駿が彼女を助けるために彼を殴ったことから恨まれていたのである。だがその傷もよくなり、退院してきた駿は太ったのか、異様に手が大きくなっていて、「なんでオレが刺されたの?」と両親に問うのだ。その駿が服を着ることができなくなっていた。それらとパラレルに、外灯やテレビが自然に消えてしまう現象も起き、玄関に見知らぬ大量の靴が置かれたりもしていた。

山下が林にそれらのことを相談すると、林は自らの少年時の体験や、以前はマンションに住んでいた時の経験から、「家の中に誰もいないはずなのに誰かいるような気がすることはないか」と問い掛ける。確かに帰宅した山下を見ている何者かが本棚の上に潜んでいるのだ。その何者かは駿の部屋にも忍びこみ、何事かを吹きこんでいる。だが誰かがいることに夫婦が気づき、警備会社による警報装置を設置するが、駿はもはや駿ではないような食べ方をするようになっていた。後には壁板まで食べるようになってしまう。

そこに山下の母親が訪ねてくる。彼女もあれは駿ではないといい、彼を女性霊媒師の東山のところへ連れていくが、功を奏せず、東山が山下家にきて、お清めをする。しかしその後、母親も東山も何者かに殺されてしまうのだ。

林のほうにも異変がおきていた。タイヤが乱雑に埋めこまれた塀の出現、長い首の女の目撃と教授室への憑依めいた侵入、その女が絡んでいるらしい学生の信号機での首吊り自殺などである。さらに山小屋の自宅には自殺したと考えていた母親が現われ、「知りてが? 全部知りてが?」と問う。林が「ああ」と答えると、彼女は彼に何事かを吹きこむ。しばらくして山下が見た林は別人のように太り始めていた。

「異様な体形」の男女の目撃からはじまった様々な異様な光景や出来事、周辺の自殺や殺人、家を襲う不気味な兆候、自らの手首の喪失、それらの「不幸に巻きこまれること」になって山下は、林に「おまえがまだオレの知っている林なら教えてくれ、ヤツらは何者なんだ」と詰問するに至る。林はモノローグのようにいう。

 「彼らはげんざと言う。人間が社会というものを作りはじめた大昔からそれに異を唱えつづけた血族だ。
 この世界は必ず人を不幸にする。この世界を潰せとね。
 かつて彼らは山の中で暮らしていたが、血を広めるために山を降り我々の社会の中に入って来た。そして今ではその血は我々の中にも混じってしまっている。
 血を受け継いだ者は自分が不幸に会う時、覚醒するんだよ。自分はげんざだとね」

これは自分にしても、山下と息子の駿にしても、「げんざ」の血を引き、それが覚醒し始めていることを伝えようとしているのだろう。山下にすぐ家を出ていくようにともいう。郊外ニュータウンの家こそ「げんざ」が異を唱える「社会」の象徴であるからだ。

帰宅した山下は息子の駿と同様に精神のバランスが狂い出し、家の壁を壊し始める。山下の妻の知らせを受け、訪れてきた林は山下にまたしもいう。

 「捨てるしかないんだよ。すでにこの家のありさまを見てみたまえ。守るって何を守ると言うんだね。
 ここにあるのは物だけじゃないのかね。物を作って物を買って物を捨てて、我々は物を増やすために生きてきたようなものだ。我々ね、ぐるぐる廻るコマの上で生きているのさ。いつかそのコマが止まると知っていながらね。なのに必死にそのコマにしがみついて生きている。(中略)コマはいつか必ず止まってしまうのさ」

異様な出来事に見舞われたのは山下家ばかりでなく、それは死体を引きずる車、連続自殺、一家心中と広範な社会現象となっていく。林は山下に説明する。山下や林が二度同じことが起きるのを見たのは「わげじいり」という分岐点のようなもので、そこから今までとはちがう不幸な時間が始まり、元に戻れなくなってしまったのだ。「わげじいり」は不幸の装置とでもいうべき「よびしろ」によって作り出され、「げんざ」を覚醒させるのだ。

『Sink』の中で説明もなく描かれ、挿入されていたバス停の大量の煙草の吸い殻、石の山、電柱にぶら下がった自転車、林の中の結界にも似た様々なガラクタの陳列、一面に広がる均一的なニュータウンの家に降りかかる雪の風景、塀に埋めこまれたタイヤなどのすべてが「よびしろ」だったことになる。
さらに林はいう。

 「山下君、この世界で我々が幸せになれると思うかね。
 国家だの社会だの家庭だの、ありもしないレールを敷いて、そのレールの上を行くしかないようなウソをつき合って。そうさ、我々はみんなお互いにだまし合っているんだ。(中略)
 山下君、教えてあげよう。この世界のほんとうの姿を。げんざは時に人を殺し、この世界を混乱させてきた。げんざが起こした事件もたくさんある。誰もげんざの仕業とは知らないままだがね」

この言葉は林の母親が彼に、何者かが駿に吹きこんだものと同じであろう。そして異様な事件や事故はニュータウン周辺ばかりでなく、全国各地へと広がっていく。異様に肥満した駿は部屋に死者たちを集めた「よびしろ」を作り、まさに「げんざ」と化してしまう。山下は「駿がげんざなら、オレもげんざかもしれない。駿を殺して俺も死のう」と考え、それを実行しようとするが、逆に駿によって殺されてしまう。しかしその駿も廃墟と化してしまったような家の中で、自らの肉体を切断し、母親にいう。「おかあさん、この世に生まれてきたけれど、この世に生きて行けない人間はどうすればいいんだろう。こんな世界で生きられない人間はどうすればいいの? そこから出て行くしかないじゃないか。だからオレは出て行くよ」と。そして駿は母親に抱かれ、死んでいく。

そこで山下一家の物語は終焉を見るのだが、新たな「げんざ」が目覚め、「新すい世界」が始まり、都市における異様な出来事が頻発していく。そしてクロージングの場面としてまたしても描き出される郊外ニュータウンの風景は、そこが「げんざ」の誕生の地、もしくは「よびしろ」であることを告げているかのようだし、作者もそのように描いているのだろう。

この『Sink』の物語をたどりながら想起されたのは、藤本泉の『呪いの聖域』(祥伝社、のち早川文庫)から始まる「えぞ共和国」の五部作である。『Sink』が舞台として東北地方を想定しているように、藤本の作品群も同様で、しかも村や島などを物語のトポスとしている。そしてそれらの住民は古代から続く村落共同体を形成し、近世幕府や近代国家などの中央集権を担う人々とは異なる日本先住民族とされている。藤本の作品群にあって、中央資本や外部による土地の開発や買収に端を発し、共同体の聖域を侵犯する時、共同体の意志としての犯罪が実行され、その犯罪が勝利するまでをアンチ・ミステリーのように描き出している。「えぞ共和国」五部作についてのさらなる言及は拙稿「消えた乱歩作家」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)を参照されたい。

呪いの聖域 文庫、新書の海を泳ぐ

『Sink』における東北、昔から影のようにいた「げんざ」の存在、「わげじいり」というイニシエーション的プロセス、「よびしろ」が示す呪術的効力は、藤本の作品群の様々なファクターと通底している。『Sink』に描かれた広大なニュータウンの風景、しかもそれらの一画はバブル崩壊によって開発も進んでおらず、雑草が生い繁っている光景の、以前の姿はどのようなものだったのであろうか。ここで柳田国男の『遠野物語』や山人幻想をも思い浮かべてしまう。

遠野物語

おそらく山や林や畑などがあり、それらがことごとく根こそぎめくりとられ、出現した裸形の広大な土地だったにちがいない。そのかつての土地の姿は何百年にわたって存在していたもので、そこには土地の聖霊のような存在すらも伝えられていたのかもしれないのだ。ただちに土地にまつわる神の名を挙げることもできるほどに。いがらしが『Sink』において召喚した「げんざ」とはそのようなものであり、「わげじいり」や「よびしろ」もそれらにまつわる儀式様式とみなしても間違っていないだろう。

かくして『Sink』の物語は郊外ニュータウンのどの家にも「げんざ」が影のように潜んでいること、それは信じていいことなのだと告げているのではないだろうか。そしていがらしによる『Sink』のような作品を前提として、本ブログでも取り上げているカネコアツシの『SOIL[ソイル]』 が出現してきたようにも思える。

SOIL第1巻

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1