前回の谷崎潤一郎の『痴人の愛』の主要な舞台が省線電車の大森駅に近い洋館であり、その「お伽噺の家」に関して長い言及をしたばかりだ。しかしこの作品において、主人公はマゾヒストであるけれども、模範的な「サラリー・マン」と設定されているので、同時代のそれも「お伽噺の家」の近傍に所謂「馬込文士村」が形成されようとしていたことにはふれられていない。
この馬込村事情については俯瞰的な一冊として近藤富枝の『馬込文学地図』(中公文庫)が刊行されているし、他ならぬ住人たちによっても多くの小説や回想が書かれている。私にしても、「坪田譲治と馬込文士村」(『古本探究』所収)で、坪田と尾崎士郎の友情にふれている。だからここで少しばかり馬込文士村の成立について記しておくべきだろう。
一九二三年九月の関東大震災後に、本郷の菊富士ホテルにいた尾崎士郎と宇野千代は大森駅から一キロのところにある、坂の多い荏原郡馬込村中井に移り住んだ。それは先に住んでいた『都新聞』の文芸記者で、後に劇作家となる上泉秀信の勧めによるものだった。それから続いて広津和郎、高田保、間宮茂輔、萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、川端康成、牧野信一、榊山潤、保高徳蔵、衣巻省三、三好達治、稲垣足穂なども住みつき、尾崎夫妻を中心にして文士村が形成され、ダンスや麻雀が流行し、様々な男女関係をめぐるドラマも発生し、いくつもの離婚騒ぎも起きていく。
住人たちをモデルにした広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』(改造社)や尾崎の『空想部落』(新潮社)などはもちろんのこと、そのような中から尾崎の『人生劇場』(竹村書房)や坪田の『子供の四季』(新潮社)も生まれてきたといえるのである。
馬込文士村が形成され始めた時期に、谷崎は関西に移住し、それから『痴人の愛』の連載となっているので、馬込文士村と谷崎が小説の舞台を大森としたことの関係は定かにわからない。だが近藤の『馬込文学地図』によれば、詩人の衣巻は馬込にアトリエ付きの家を建て、そこで夫婦そろってダンスに励み、広津や間宮はカフェー・ライオンの女給を愛人や妻にしていた。これらは『痴人の愛』とまったく共通するものであるし、さらに谷崎は馬込の家にいた萩原朔太郎の妹愛子と交際し、プロポーズまでしたと書かれているので、谷崎は関西に在住しながらも、馬込文士村の動向に常に注意を払っていたのではないだろうか。
その萩原による「大森駅前坂」「大森駅前・八景坂」の写真が残され、『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』に収録されている。これは『萩原朔太郎撮影写真集』(上毛新聞社出版局、一九八一年)をベースとし、新たに編まれた一冊といえよう。これらは萩原が双眼写真と呼ばれるフランス製のステレオスコープというカメラで撮ったもので、この立体写真機にはレンズが二つあり、一枚の細長い乾板に同じものが写り、これを特殊な覗き眼鏡に入れてみると、左右の二つが立体的に浮かび上がってくるという。萩原はこれらの写真を大正から昭和にかけて撮ったのである。
同じく所収の「僕の写真機」によれば、彼がその写真機を愛するのは「記録写真」や「芸術写真」を撮るためではなく、「その器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されている、自分の心の郷愁が写したい」からだ。確かにこの一冊に収録された町や田舎の様々な景色の写真はことごとくが寂しさに包まれ、「のすたるぢや」そのものがテーマであるように映る。それは「大森駅前坂」も例外ではなく、奥の方に坂を降りたものの、どこにいこうか途方に暮れているような人影が見えている。
朔太郎には「坂」(『拾遺詩篇』所収、『萩原朔太郎全集』第一巻、新潮社)と題する散文詩があり、この詩は昭和二年に『令女界』に寄せたものとされているので、「大森駅前坂」に仮託しているとみて間違いないだろう。
坂のある風景は、ふしぎで浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遙かな地平があるやうに思われる。特に遠方から、遠視的に見る場合がさうである。(中略)
或る晩のしづかな日に、私は長い坂を登つて行つた。ずつと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに廣茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切崖の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見やうとする、詩的なAdventureに驅られてゐた。
何が坂の向うにあるのだらう? 遂にやみがたい誘惑が、或る日私をその坂道に登らした。十一月下旬、秋の物わびしい午後であつた。落日の長い日影が、坂を登る私の背後(うしろ)にしたがつて、冥想者のやうな影法師をうつしてゐた。風景はひつそりとして、そらにはうごかない雲が浮いてゐた。
そうして「私」が坂を登っていくと、一面の大平野が海のように開け、芒や尾花の秋草が光、その中に木造の西洋館が建っていた。「それは全く思ひがけない、異常な鮮新な風景」で、海上の蜃気楼のようにも思われた。「私」が声を上げて叫ぶと、草むらが風に動き、二人の若い娘が秋の侘しい日ざしを浴び、石の上にむつまじく坐っていた。「娘たちは詩を思つてゐる」のだ。その娘たちの一人は「私の夢によく現はれてくるやさしい娘」で、「私を幸福感でいつぱいにした」のである。
だが「坂」は次のように結ばれている。
しかしながら理性が、たちまちにして私の幻覚を訂正した。だれが夢遊病者でなく、夢を白日に信ずるだらうか。愚かな、馬鹿々々しい、ありふれた錯覚を恥ぢながら、私はまた坂を降つて来た。然り――。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の「錯誤」にすぎないといふことを。
セピア色の「大森駅前坂」の写真はまさにこの「坂」に対応し、高い石崖にはさまれた坂が「新開地の郊外で、いちめんに廣茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた」。それに加え、これも朔太郎が撮った「馬込風景」(『萩原朔太郎』所収、「新潮日本文学アルバム」、新潮社)を置くと、坂を登ったところに出現する馬込の一望の景色も示されることになり、これらの写真を眺め、夢想することで、「坂」という散文詩が紡ぎ出されたのではないかと思えてくる。
セピア色の写真と詩を比べていて連想したのは、つげ義春の『夢の散歩』(北冬書房、一九七五年)の箱表紙絵で、そこには正面に山を控え、坂をのぼっていこうとしている青年と自転車が描かれている。坂が急だから、青年は自転車を降り、歩いて登っていくつもりなのであろうか。表題の短編「夢の散歩」もまた「坂」と同様に、「夢を白日に信ずるだらうか」という「永遠『錯誤』」に他ならない。道も山肌もセピア色に近い茶色や黄色で、そこを登っていくと、これも『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』に収録されている「大森駅前・八景阪」のような風景が出現するようにも思われてくる。そこは関東大震災後に盛んになった看板建築様式による商店街のように見える。榊山潤が『馬込文士村』(東都書房)で証言しているように、「新開住宅地」の発展に見合って震災後に米、酒、雑貨店、西洋料理、中華料理店などが通りに店を並べるに至ったと書いているが、それは八景阪の途中も同様だったのではないだろうか。
だがこれらの写真には何らかの共通する侘しさがつきまとっている。これらの写真が撮られてから十余年後の一九三四年の『定本青猫』(版画荘)の「自序」において、明治十七年に出版された『世界名所図絵』から採録した西洋の文明市街の挿絵にふれ、次のように述べている。これらは日本の職工が無意識で描いた版画であるが、一種の新鮮な詩的情趣があり、すべての風景がオルゴールが鳴らす侘しい歌を唄っているようで、「その侘しい歌こそは、すべての風景が情操してゐる一つの郷愁、即ち『都会の空に漂ふ郷愁』なのである」と。だがまだ開発されたばかりであろう「新開地の郊外」の風景がそのような「のすたるぢや」を伴って出現しているのはなぜなのであろうか。『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』にあつて、新しい写真ともいえる「大森駅前坂」や「大森駅前・八景阪」にしても、撮られた瞬間からすでに「のすたるぢや」が備わっていたように思われるし、そうして「坂」のような散文詩も書かれたと考えるしかない。
『月に吠える』の冒頭の「地面の底の病気」において、「地面の底に顔があらはれ、さみしい病人の顔があらはれ。」と始まっているように、朔太郎はどのような風景の「底」にも、「侘しさ」や「郷愁」を感知し、幻視し、実際に彼のステレオスコープはそれをいつでも撮ってしまうのである。そのような感知と幻視のメカニズムゆえに、都市ではない「新開地の郊外」ですらも「のすたるぢや」を伴うトポスとなって出現することになる。それは郊外の原風景を呼び覚ますような写真として提出され、詩人による郊外の異化作用を示したことになろう。
ここで国木田独歩の『武蔵野』から始まった郊外風景はセピア色に染まり始め、もうひとつの郊外の詩的イメージが立ち上がろうとしていた、いや、忍び寄りつつあったというべきであろう。