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古本夜話1218 堺利彦訳『哀史梗概』

 堺利彦の死と同年に刊行された中央公論社の『堺利彦全集』は、その短期間の準備と編集にもかかわらず、多彩な堺の仕事と業績を俯瞰するようなかたちで、見事な全集として編まれている。

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 編集者の荒畑寒村は「翻訳は全部を割愛し」、翻訳小説も「特に興味の深いもの又は特別に苦心の払はれたもの三四編を収録」と述べていた。だが前回のゾラの三作の他に、エドワード・ベラミー『百年後の新社会』(第二巻)、ウイリアム・モリス『理想郷』、バーナード・ショウ『谷川の水』(いずれも第三巻)、ジャック・ロンドン『野性の呼声』(第五巻)などの主要翻訳は収録されている。確かに堺の「人としての、文筆人としての、社会運動家としての全貌を伝へる」「その主要労作のほとんど全部を網羅」することを優先したからだが、翻訳にしても目配りのきいた選択であろう。

 それならば、他の翻訳や翻訳小説はということになるが、黒岩比佐子の「社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」のサブタイトルを付した『パンとペン』(講談社)において、次のように言及されている。

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

 私たちに比較的なじみがあるのは、「海外文学の紹介者」としての堺利彦だろう。彼はバーナード・ショー作品の翻訳を手がけた先駆者で、ショーの戯曲『ピグマリオン』を日本に初めて紹介した。これは、オードリー・ヘプバーンが主演した『マイ・フェア・レディ』の原作である。ジャック・ロンドンの名作『野生の呼び声』と『ホワイト・ファング(白い牙)』を最初に日本語訳したのも堺だった。この二冊は時代を超え、世代を超えて多くの読者に愛読された。

マイ・フェア・レディ スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 『ピグマリオン』は『近代出版史探索Ⅴ』878の『生活と芸術』に掲載され、堺の『猫のあくび』(丙午出版社)に収録された。ロンドンは『ホワイト・ファング(白い牙)』(叢文閣、大正十四年)、『野性の呼声』(同前、昭和三年)としてで、後者の全集収録はふれたばかりである。これらの他にも多くの翻訳があるし、売文社の社員として、大杉栄、荒畑寒村、山川均、高畠素之などもいたので、これも黒岩がいうごとく、売文社こそは現在の「編集プロダクション」「外国語翻訳株式会社」の先駆と見なすべきであろう。それゆえに、前々回の『肉塊』が売文社を経由して三徳社から出版されたという推測も成立するように思われる。

f:id:OdaMitsuo:20210914084655j:plain:h105(『肉塊』)

 『堺利彦全集』の他に、手元に平民社資料センター監修『堺利彦』(「平民社百年コレクション」第2巻、論創社)があり、それが全集収録以外の彼の翻訳も収録している。それらの主なものを挙げると、ユーゴー『哀史梗概』、トルストイ「一人の要する土地幾可」(いずれも『半生の墓』所収、平民書房)などである。だがここではやはり小説にふれるべきだろうし、『哀史梗概』を見てみる。

f:id:OdaMitsuo:20210922141120j:plain:h120(『半生の墓』)堺利彦 (平民社百年コレクション)

 これはいうまでもなく、『近代出版史探索Ⅴ』827などのユゴーの『レ・ミゼラブル』で、拙稿「講談社版『世界名作全集』について」「松本泰と松本恵子」(『古本探究』所収)で取り上げている、同じくユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』と並んで、世界児童文学全集物の不可欠な作品であった。しかもそれらは大正から昭和戦後にかけて、大衆文学、映画、漫画の物語素として散種され、近代の物語に多大な影響を及ぼしたといっていい。

 堺はこれを『哀史梗概』として、明治三十一年に発表していたのである。まさに黒岩涙香が『噫無情』として『万朝報』に訳載するのは三十五年だから、その梗概とはいえ、堺のほうが先駆けていたことになる。ジャン・バルジャンは「戎巴爾戎」として登場してくる。そのシーンを引いてみる。

 千八百十五年十月初旬或日の暮方、伝井街に入り来れる一旅客あり。年は四十六七にして倔強なる体格なれど、如何にもみすぼらしき姿にて、日にやけ汗にぬれ、背には革囊一つを負ひ、手には節くれたる杖を突き、髪はもつれ髯は長く、股引の片膝は白く片膝は穴あきたるが、素足に破靴はきて歩むなり。警察署に立寄りて旅行券を示し、許を得て宿屋に入りぬ。

 しかし宿屋の主人はいうのだ。「汝の名は戎巴爾戎といふなるべし。汝の何者なるかは今警察より聞きて我能く知れり。「去れよ」と。

 この「哀史梗概」は『レ・ミゼラブル』第一章の梗概とされているが、実際には第一部「ファンテーヌ」の要約で、その文体といい、堺の見事な翻案技法を味わうことができる。もちろん涙香が明治二十五年に『万朝報』に連載した『鉄仮面』(『黒岩涙香集』所収、『明治文学全集』47)を範としてとも考えらえるけれど、翻案技法で涙香と堺はつながり、それが逆に『哀史梗概』も『噫無情』へと溶かしこまれているように思われる。

明治文學全集 47 黒岩涙香集

 そしてユーゴーのこの小説は『近代出版史探索Ⅴ』827の豊島与志雄の全訳として結実し、円本の『世界文学全集』へと収録に至り、多くの読者を生み出していく。その一人こそは水上勉であり、『レ・ミゼラブル』の物語をパラダイムとして、昭和三十七年に『週刊朝日』に『飢餓海峡』を連載するに至る。単行本は三十九年に河出書房新社から出され、内田吐夢監督によって映画化されるのである。

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