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古本夜話487 川端克二『海の魂』とコンラツド『陰影線』

野村尚吾の『週刊誌五十年』毎日新聞社)に収録された『サンデー毎日』の「大衆文芸」入選、選外佳作者を見ていくと、昭和十三年から十四年にかけて、立て続けに川端克二という名前が出てくる。川端は同十三年上期に「海の花婿」、同十四年上期に「鳴動」で入選を果たし、同十四年下期には選外佳作のところにその名前の掲載がある。
週刊誌五十年

川端克二は『日本近代文学大事典』で立項されていないが、昭和初期の文藝春秋系の菊池寛を編集顧問とする半文壇的投稿誌『創作時代』の項に、新進作家の養成に積極的で、川端克二らを発掘と一ヵ所だけ名前が出てくる。実はこの川端の本を一冊だけ持っている。それは昭和十七年に近代小説社から刊行された『海の魂』である。
これは海を描いた古沢岩美の装丁による四六判並製の一冊で、表題を含め八編を収録した短編集となっている。

川端の「後書」によれば、これらの短編集のうちの「潮風に乗る女」は『モダン日本』、「漁場日記」と「出稼ぎ風景」は『週刊朝日』の懸賞入選作であると記されているので、『サンデー毎日』も含めると、昭和十年代において川端は様々な雑誌の大衆文芸の常連入選者だったことになる。またちなみに「出稼ぎ風景」は日活によって映画化され、それを契機として川端は上京したとも記している。この映画は未見であるし、『日本映画作品全集』キネマ旬報社)にも掲載されていないが、ぜひ見てみたいと思う。

なぜならば、この川端の『海の魂』は一連の漁村小説を形成していて、「出稼ぎ風景」もその一編であり、当時の漁村が映画においてどのように描かれているのか、興味を覚えるからだ。おそらく川端は北海道の漁村出身だと推測され、彼の小説の大半はその漁村を背景とした、当時の海洋文学の一端を示しているのではないだろうか。

しかし海に関する小説、戦記、探偵、冒険、記録など三百六十編余を収録した小島淳夫編著『世界の海洋文学・総解説』自由国民社)に川端の作品はない。同書は他に類書が見当たらない貴重な海をめぐるブックカタログであるだけに残念な気がする。また日本の海洋小説もまとまった分野として一章が割かれているのだが、日本のリアルな海洋文学はプロレタリア文学の流れとしてあるという指摘にとどまり、それ以上の言及はなされていない。私見においても、川端の漁村を舞台にした小説は、葉山嘉樹島木健作の系譜を引くプロレタリア大衆文学のイメージを感じてしまう。
世界の海洋文学・総解説

ただ『世界の海洋文学・総解説』がそうであるように、近代文学史や出版史においても、昭和十年代にそれなりの分野を占めた国策文学としての海洋文学、及びその背景に控えていると思われる海洋文学協会についてのまとまった記述は見つけられない。しかし海洋文学は開拓文学、生産文学、大陸文学、戦記文学と並んで、多くが出版され、売れたはずであり、『海の魂』の奥付にある初版八千部との記載はそれを証明しているのではないだろうか。

それは翻訳書も同様で、「海洋文学名作叢書」を刊行する出版社も出現していた。その出版社は発行者を中村正利とする海洋文化社で、私は昭和十七年に出されたその一冊を持っている。鮮やかなブルーの背景に船首が描かれた表紙に、『陰影線』という黄色い書名が入り、背にジヨセフ・コンラツド、木島平治郎訳とある。このバンコックからシンガポールへの困難な航海を描いた小説の原題はThe Shadow Line で、訳者によれば、「青年が行く末に対する希望に燃え一切を空想の裡に過ごす時期から、漸くそれ等の空想、希望を実現しようとし始める意志的な時期へ移らうとする過渡期」を意味しているようで、主人公がそれまで乗っていた船から降り、新たな別の船に乗り組む心理をタイトルにこめているのだろう。『陰影線』はこれが初訳で、朱牟田夏雄による再訳が出されるのは戦後の中央公論社『新集世界の文学』第二十四巻においてだった。
The Shadow Line 『新集世界の文学』第二十四巻

奥付裏には「叢書」について、「海洋文化社の一使命として、世界海洋文学の古典名作の一大叢書を企画、玆に三巻完成す。続刊の予定」とあり、メイフイールドの『海の幻』(須藤兼吉訳)、『現代海洋劇傑作集』(小稲義男訳)が『陰影線』と並び、これが惹句の「三巻」だとわかる。そして「続刊予定」として、メルヴイル『オムー』、デイナ『水夫生活体験記』、キングスレイ『西進』、スチブンスン『南太平洋航海記』、コンラツド『海の魂』が掲載されている。

しかもこのようなシリーズを出版していたのは海洋文化社ではなく、改造社もほぼ同時期に『現代海洋文学全集』を刊行している。それに加えて、改造社版は全十巻予定が完結しなかったようだが、第九巻に『海の鏡』が収録されていることからすれば、海洋文化社の「叢書」も続刊が出されず、改造社の「全集」へと吸収されてしまったのかもしれない。

川端の『海の魂』、海洋文化社の「叢書」、改造社の「全集」とたどってきたが、『海の魂』の部数にしろ、海洋文化社や改造社の企画にしろ、国策文学へと位置づけられたことで、何らかの助成金が出され、それを得て出版されたのではないだろうか。しかし戦時下の状況が深刻になり、売れ行きもよくないこともあり、中絶してしまったとも考えられるのである。

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