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古本夜話1213 榎本秋村訳『沐浴』と『新ニノンへのコント』

 天佑社のゾラの翻訳をもう一冊見つけたので、それも続けて書いておきたい。それは大正十二年七月刊行の訳『沐浴』である。天佑社の六冊目のゾラの翻訳だが、三〇六ページの短篇集ゆえか、『貴女の楽園』などの厚い四六大判と異なり、一回り小さい判型で、函もなく、痛みも目立つ一冊だ。その痛みはあたかも関東大震災に遭遇する運命を定められて刊行されたような印象を与える。

 『沐浴』は同タイトルの短編を始めとし、「草苺」「学生」「牧師」「侯爵夫人」「隣人」などの十四編を収録している。しかし訳者による序や解説も付されておらず、ただ「ゾラ傑作短篇集」と背に角書で謳われているだけだ。だがこの『沐浴』は入手して初めてわかったのだが、一八七四年にゾラが上梓した『新ニノンへのコント』(Nouveaux contes à Ninon)の翻訳に他ならない。ゾラが短篇集『ニノンへのコント』(Contes à Ninon)でデビューしたことは承知していても、その十年後に『新ニノンへのコント』という続刊短篇集が出されたことはあまり知られていないのではないだろうか。その知られざるゾラの第二短編集までもが何と大正時代に翻訳されていたのだ。

f:id:OdaMitsuo:20210916094624j:plain (『新ニノンへのコント』) f:id:OdaMitsuo:20210916102333j:plain:h143(『ニノンへのコント』)

 『近代出版史探索外伝』の表紙カバー写真に、拙稿「一九〇六年の『ゾラ全集』」(『古本屋散策』所収)の書影を使っているのだが、この二つの短編集はその第十八巻に収録されている。『沐浴』が『新ニノンへのコント』におけるゾラの「ニノンへ」と題する「序」だけを省いた翻訳だと確認できる。

近代出版史探索外伝

 そこに「小村」という一編があるので、その書き出しを見てみよう。

 この小さい村は何処にあるか。その白い家々が、何んな地面に隠れてゐるのか。其の家族は或る凹みの中に、教会のぐるりに集まつてゐるのか、又は大きな道路に沿つて、陽気に立ち並んでゐるのか。尚ほ又その赤い屋根を緑樹のうちに現はしたり、隠くしたりして、丁度気まぐれな牝山羊のやうに、小山を覗いてゐるのか。

 この「小村」こそは『壊滅』の普仏戦争で激戦地となり、殺戮と血にまみれることになるアルザスのヴルトに他ならなかった。ゾラは一八七〇年の普仏戦争の始まりにあって、その戦争を幻視して「小村」を書き、後にその村名を付け加えたのである。先の全集収録の Le Petit Village と「小村」を照合させて読んだのだが、フランス語原文に忠実な訳で、『沐浴』は英語からの重訳ではなく、フランス語に基づいているように思われる。

壊滅 (ルーゴン・マッカール叢書)

 それならば、訳者の榎本秋村のプロフィルはということになるけれど、『沐浴』に何の手がかりもないことに加え、『日本近代文学大事典』などにも見出せず、まったくわからない。それでもかつてその名前を一度見ている。『近代出版史探索Ⅱ』325でふれた新栄閣のモオパツサン、大澤貞蔵訳『女の戯れ』の巻末広告においてだった。そこには仏国ダルシイ原著、榎本秋村訳として『歓楽の哲婦』が示され、次のようなキャッチコピーが躍っていた。

 大胆赤裸々の描写は『ベラミイ』『ナナ』の比にあらざる傑作!
 肉体の豊艶と容貌の佳麗を誇る美女が自ら進んで淫蕩生活に入る。其心理推移の是非は之を読者の批判に一任する。当初情婦を持つ其若き母をいやしんだ彼女は、後に母の寝室の戸口に忍び寄り息を殺して耳を澄ます事幾晩。解し難き秘密に懊悩して歓楽を遂ふたが然し帰する所を知つて居た。
 仏文の直接訳、見る官能描写と心理推移の繊細なる筆致を!

 先の拙稿で、『ロシア文学翻訳者列伝』の蓜島亘から『女の戯れ』とともに、レオンスアルシイ原著、青柳若雄訳『炎ゆる情熱』、ゾラ、大島匡助訳『呪はれたる抱擁』(いずれも石渡正文堂、前者は大正十三年、後者は同十五年)を恵贈されたことを既述しておいた。その蓜島によれば、『炎ゆる情熱』とダルシイ、秋野村夫訳『白熱の愛』(河野書店、同十三年)は『歓楽の哲婦』と同じで、タイトル、訳者名、装丁だけでなく、出版社も替えての再版だと記している。そうした複雑な出版形式と譲受出版に関する推測はそこで書いているので繰り返さない。必要とあれば、そのことも含め、赤本、特価本、造り本業界に多く言及している『近代出版史探索Ⅱ』を参照してほしい。

ロシア文学翻訳者列伝

 それにここでの問題は、どうして『歓楽の哲婦』の訳者がゾラの『沐浴』の榎本とされているのかにあるからだ。『白熱の愛』の秋野村夫にしても、榎本の変名であろう。それは天佑社の譲受出版が全体に及び、タイトルも訳者も装丁も勝手に変えてかまわないとする海賊出版に近いものになってしまったからではないだろうか。

 これは『沐浴』の巻末広告で知ったのだが、ボッカッチオ原著、大澤貞蔵訳『十日物語(デカメロン)』が発禁となり、「再発行」している。大澤は新栄閣の『女の戯れ』の訳者とされているが、これはやはり天佑社の『モーパッサン全集』第八編の中村星湖訳『我等の心』と考えられるので、恣意的にタイトルと訳者名が替えられたと見ていい。それは『歓楽の哲婦』も同様だし、ダルシイという原著名も同じであろう。

f:id:OdaMitsuo:20210916154514j:plain:h120(天佑社版『十日物語』)

 『歓楽の哲婦』の隣にはヴェドキンド原著、柴田咲二郎訳『春の目ざめ』が並んでいる。これは本探索1207などの東亜堂の野上白川訳『春のめざめ』の譲受出版ではないだろうか。東亜堂も大正十年頃に立ちゆかなくなったことも既述しておいたばかりだ。しかし譲受出版の場合『女の戯れ』『歓楽の哲婦』『炎ゆる情熱』『呪はれたる抱擁』『春の目ざめ』といったタイトルからわかるように、ポルノグラフィ的色彩が強い小説が選ばれている。それにまたゾラでいえば、製作コストが高い大部の『貴女の楽園』、大鐙閣の『血縁』『金』『巴里』『労働』などは譲受出版されていない。

f:id:OdaMitsuo:20210916155340j:plain(東亜堂版『春のめざめ』)

 なお『沐浴』に戻ると、「小村」は朝比奈弘治訳『水車小屋攻撃』(岩波文庫、平成二十七年)に「小さな村」、「猫の楽園」は宮下士朗編訳『初期名作集』(「ゾラセレクション」1、藤原書店、同十六年)に「猫たちの天国」として収録に至っている。

水車小屋攻撃 他七篇 (岩波文庫) 初期名作集 ゾラ・セレクション (1)


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