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「吉行淳之介論<愛>について」その1

 同人誌『VOLO-私は翔ぶー』第2号 昭和49年12月20日発行

Ô Saisons, ô châteaux !
Quelle âme est sans défauts?
    Rimbaud

                Ⅰ

 夕暮の街、落日の光景、恋人たちの時刻―
 様々な〈愛〉の調べを奏でながら、恋人たちは歩いて行く。〈愛〉を確認するように、指をからませながら、一歩一歩大地を踏みしめて歩いて行く。〈未来〉の彼方に、何が待っていようとも、恋人たちは〈現在〉の中で、〈愛〉を育んでいればいい。それが〈愛〉の〈時間〉というものだ。うたうなら、恋人たちはどんな恋唄をうたうことも出来る。例えば、こんな風にも。

  ……
 手をかたくくみあわせ
 しづかに私たちは歩いて行った 
 かく誘うものの何であらうとも
 私たちの内(うち)の
 誘はるる清らかさを私は信ずる
 無縁のひとはたとへ
 鳥々は恆(つね)に変らず鳴き
 草木の囁きは時をわかたずとするとも
 いま私たちは聴く
 私たちの意志の姿勢で
 それらの無辺な広大の讃歌を
 ……
(伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』
わがひとに与ふる哀歌 (愛蔵版詩集シリーズ)

 しかし吉行淳之介の耳には、「無辺な広大の讃歌」ではなく、何処からか、「今、わたしたちは幸福なのでありましようか」というリフレインが聴こえていた。吉行が昭和二十年、二十一才の時に書かれた『薄明』と題された詩がある。

 層雲の彼方に 今日の陽は落ちようとしている
 きみよ 薄明に
 仄白い指をわたしと組み合わせて
 静かにへりくだって心に訊うてみよう
 「今 わたしたちは幸福なのでありましようか」
 そして―
 あわただしく魂を暗闇に塗り籠めなくては

 この詩の中に、すでに後年展開されていく吉行淳之介の心象風景の果核が秘められている。冒頭の落日のタブローの中には、予兆と予感が潜んでいる。それは後年『砂の上の植物群』や『焔の中』や『路上』などの作品に、変奏されて表われている。

 この時、吉行の心象は、落日の光景の中で、不幸な意識に犯され始めている。奇妙な不安と疑惑が襲いかかり、〈幸福〉という幻想が失墜して行きそうな気配がある。不安と疑惑は不意討ちのように、吉行の裡へと飛び込んで来る。吉行は問わずにはいられない。「今 わたしたちは幸福なのでありましようか」と。そしてその答えを明確に示すことなく、「あわただしく魂を暗闇に塗り籠めなくては」という怯えにも似た決断を下すのである。この二つの詩句の間の空間の中に、ぼくたちは吉行が文学的影響を受けたという、『トニオ・クレーゲル』風の「芸術家」と「市民」の背反の意識、あるいは萩原朔太郎の逆説に充ちた〈愛〉や〈女〉に対するアフォリズムの陰影を見てもいいのかもしれない。そして吉行の鋭敏な感受性をも。

トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)

 しかし、この二つの詩句の空間を飛び越え、「暗闇」の中へ入って行った時、その「暗闇」の中では、どんなドラマが展開されて行ったのだろうか。

 『薄明』という詩が書かれてから、丁度二十年後の長編『技巧的生活』の冒頭は、この「暗闇」の中で行われたドラマを暗示しているように思われる。それは青年と少女が公園で若い〈愛〉を語っている時、背後の闇の中から

 「もう、子供はつくらないことにしようね」

という声が聴こえて来る。そして、その後少女は酒場の女と成るのである。

 「暗闇」の中を出て来た少女が〈女〉へと変貌し、酒場の女と成ったように、吉行淳之介が「暗闇」の中から出て来た時、そこにはどのような変貌が起っていたのだろうか。

(『技巧的生活』)

 ぼくたちの前に、吉行淳之介が再び姿を現わした時、そこにはもう詩の中の少年の面影は消滅し、吉行の小説の主人公たちは、「毛を毟られたにわとり」(『娼婦の部屋』)のようになり、「精魂尽き果てかけてい」(『寝台の舟』)、「街の風物」も「人間」も「すべて石膏色」(『鳥獣虫魚』)に見える人間として登場して来る。そして彼らは、日常生活への異和感と距離感とを常にいだいている。

(『娼婦の部屋』)

 しかしぼくたちには、なぜ彼らがそのように成ったのかという理由は明かされてはいない。つまり、そうした状態に成るまでの記憶は、吉行の内部に閉じ込められ、ぼくたちには空白なままである。だが吉行の個人史を遡行して行けば、やはりそこには「暗闇」の中の記憶が、彼らを「毛を毟られたにわとり」のようにし、「精魂尽き果てさ」せ、「街の風物」も「人間」も「すべて石膏色」に見えるようにさせたのではないだろうかということに気づく。

 吉行淳之介はその「暗闇」の中の記憶を明確には語っていない。しかし「暗闇」の中で、吉行が感じ得たもの体験したものが、一種の[喪失]であったことは、『童謡』という短編の末尾の部分にはっきりと示されている。

 「もう、高く跳ぶことはできないだろう」そして自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきり形の分らぬもの。そういうものがあるのを、少年は感じていた。

 この時、少年は[成熟]という名の[喪失]を体験している。

 そして、この「もう、高く跳ぶことはできないだろう」と感じた少年が、成長し、大人に成って、社会へ降りて行った時、彼はどのような生活を強いられねばならなかったのだろうか。

童謡―童謡に触発された短篇集 (1975年) (『童謡』)

(つづく)

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