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【自治会、宗教、地方史】No. 40 第二部14  推測の話——ゼネコン社長の思いつき

推測の話——ゼネコン社長の思いつき

 
小田 : これは私の推測だけど、我々が想像する以上に市議会議長というのは権威のあるポストだったんじゃないのかな。市会議員のトップに立つわけだから、市長と比肩するようなポジションと見なされていたのかもしれない。
 そうなると取り巻きや追従者が群がってきて、色々な情報を吹きこむ。私などはえらくなったことがないので、そこらへんの細部事情はわからないのだが。

 でもこの一件に関して調べているうちに、わかってきたこともあり、これも推測だが話しておくべきだと思う。そうすると、私もまったく無縁ではないことがわかってきたからだ。

A : それはおもしろそうだね。聞かせてもらいましょう。

小田 : まず市制発足にともなう『市誌』編纂が国分寺の発掘を背景とする歴史的文化的なバイアスをともなっていたことにふれましたが、その編纂委員長は市長で、彼は集古会の主要メンバーの息子なんです。

A : じゃあ、あなたが出版した山中共古『見付次第/共古日録抄』とダイレクトにつながっている。

小田 : しかも『見付次第』の原本は、現在慶應大学に架蔵されているが、かつては市長の父が所持していたもので、柳田国男にしても、それを借りて読んでいる。

 そのことはひとまずおくとして、重要なのは編纂委員として教育委員であるゼネコンの社長が含まれていることだ。これは『市誌』と発掘の関係を調べていく過程で判明したのだが、石田茂作を招聘したのはこの人物だったのである。

 彼は私家版の何冊ものメモランダムを刊行していて、市立図書館に架蔵されていることもあって、読んでみた。すると昭和26年当時は戦後のことゆえに、旅館事情もよくないので、石田たちを自宅に泊め、食事なども賄ったとの記述が見つかる。それに車のない時代だったので、発掘関係者の手配も大変だったと書かれていた。

A : でも考えてみれば、それは当たり前だね。現在の感覚で当時のことを判断すべきでないという格好の証言だし、国分寺周辺ではないO寺の薬師如来をわざわざ見にきたはずもないという裏付けにもなる。

小田 : 6キロ以上離れているわけだから、車がなければ行けたはずもないし、発掘日程からして時間的にもそれがありえなかったことは明らかだと思う。これで石田茂作が調査し、高く評価され、文化財指定というストーリーがまったくのフィクションだとわかるでしょう。

 ところが先代が政教一致の大物だと思われるようになって、誰かがT王寺=T應寺説を吹きこんだのではないかと思う。ご当人はまったくの世俗的な人物で、『市誌』の記述にふれるはずもなく、やはり昭和50年近くになって、そのことに気づいた。それを教えたのは国分寺発掘のタニマチといえる存在で、教育委員でもあったゼネコンの社長ではないかと。

 それは昭和40年代の開発を通じて、ゼネコンと市の関係は密接につながり、そこに市会議員たちも絡んでいたし、まさに南部地区の政教一致の実力者として、市にしてもゼネコンにしても、大いに利用できる立場にあったからだ。
 そもそもゼネコンの社長が発掘に関わったのも、そこに道路計画が生じていたからだし、そのことを通じて、市との関係を強固にしようとする意志があったと見ていい。

 しかしこの問題を考えていくと、自分にも跳ね返ってくるわけだ。実は市の開発計画をめぐって、丹下健三系の設計事務所がコンサルタント的存在として、深く関わっていたようなんだ。

A : その設計事務所というのはあなたとコラボレーションしているところじゃないの。

小田 : そうなんだ。うちはここに設計監理を依頼し、そのゼネコンが建設工事を引き受けているし、社長のほうとも会っている
 ただそれは建設プロパーではなく、山中共古をめぐってのもので、地場の印刷所の役員が紹介してくれたことによっていた。ただ当時、もはや引退し、会長となっていて、その数年後に亡くなっている。

 私のほうはまだ自治会長ではなかったし、T王寺問題についても知らなかったので、発掘事情なども含め、尋ねることはなかった。でもそれでよかったと思うし、尋ねたとしても真相は語られなかっであろう。

A : 私もそう思うよ。