出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

31 人種と共生の問題

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 "> アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通
28 浜松の印刷所と長谷川保
29 聖隷福祉事業団と日本力行会
30 日本における日系ブラジル人


31 人種と共生の問題

九〇年代になって、様々な外国人労働者、難民、密入国者、中国残留孤児たちをテーマにした多くのノンフィクションや小説が書かれ始めた。とりわけ九七年の桐野夏生『OUT』(講談社文庫)は、コンビニの弁当工場で夜間に働く郊外の孤独な女性たちと日系ブラジル人の共生を描いている。豊かな消費社会を背後で支えている監視システム下にある弁当工場、そこで疎外された女性たちと日系ブラジル人が出会うのである。『OUT』に代表されるこれらの小説に共通して表出しているのは混住の葛藤であり、そこから沸騰する犯罪を描くと同時に混住の可能性とその行方を示唆しているし、外国人労働者や難民の存在こそが物語を活性化させ、彼らとの共生が二十一世紀の日本社会の希望であることを暗示しているようにも思える。

OUT 上 OUT 下

さて少しばかり前置きが長くなってしまったが、私も日系ブラジル人との共生を願いながらも、彼らを個々の人間ではなく、人種として見ていることに気づかざるを得ない。このことを考えていると、まだ日系ブラジル人が日本にやってきておらず、身近な存在でなかった時代に読んだ江藤淳の発言を思い出す。それは三十年近く前になされた吉本隆明との対談「現代文学の倫理」(吉本隆明対談集『難かしい話題』所収、青土社)におけるものだった。その江藤もすでに故人となって久しい。この対談の全体について論じているときりがないので、関連する要点にだけふれる。

江藤は自らのアメリカによる日本占領研究を踏まえ、実質的にそれが現在でも起き、戦後の日本人はアメリカの支配下にある知的、言語的空間の中で生きているし、「うっかりすればこの八〇年代の間にだって、日本がなくなることもあり得る」し、なくなった場合、日本人のうちの少なくとも数十万か数百万人はどこかに逃げるであろうと語り、日本はなくなっても人間という概念は残ると述べる吉本にむかって、次のように言う。

 その場合、逃げた人たちはどうなるのだろう。彼らは人間として見られるのか、決してそうではないんですね。吉本さん、まず人種として見られるんですよ。亡国の日本人という人種は、千五百年だか二千年だかわからないけれど、この人種がそこに至った故事来歴を背負った人種として、突き放して冷たく見られるのですよ。その時点から改めて人間であるということの自己証明を始めなければならない。それは日系移民がすでにやって来たことの、おそらくはもっと過酷な繰り返しです。いまは韓国系の新移民が非常に多くなっていてロサンジェルスだけでも八万人もいる。この人たちも人間であることの自己証明を日夜迫られている。アメリカだからまだいいんで、もしこれがヨーロッパでも行ってごらんなさい。それはもうどうなるかわかりませんね。そういうことを考えると、その点でも実は失礼ながら吉本さんは楽観的に過ぎると思うのです。つまり日本国がなくなったとき、直ちに人間という概念が残るという考えが楽観的なのです。その次に出てくるのは必ず人種です。それは文学的に想像してもわかることではないでしょうか。亡国の憂目を見て、只の人種になり、人間への道を模索している人々は、アメリカには沢山います。ポーランド難民、チェコの難民、とにかくさまざまな国からやって来ている。かつては高校の先生だった人が、アメリカの大学の小使いさんになって、床を毎日磨いている。その時彼らは何と見られているか、もちろん建前からいえば人間ということになるでしょうが、実際にはスラブ人とかあるいはユダヤ人という人種としてしか認識されていない。あなたのお考えからは、この問題が抜けていませんか。吉本さんが人間に至る思想を構築される上で、是非この人種の問題を踏まえていただきたい。人種というとナチスユダヤ人排斥とか、日本人の人種差別とか、いろいろな連想が沸きますが、この問題はやはりきちんと一段階踏まえた上で、人間に至る道をお考えいただきたいと思います。そうでなければ、その思想は綺麗ごとだとぼくは思う。

                    
要約して引用するつもりだったが、あまりにも生々しい言葉が間断なくつらなっているので省略できず、長い引用になってしまった。ベトナムボートピープルなどの難民が発生しつつあった八〇年代における江藤の発言は、グローバリゼーションの時代を迎えている現在にあって、古びるどころか、さらにリアルに響いてくる。

確かに私も書いてきたように、日系ブラジル人を「人種」として見ている。それはかならずしも、「人間」として見ていないということではないが、混住しているにもかかわらず、言葉と生活習慣の問題もあり、彼らとのコミュニケーションが深まっていないからでもある。このような日本社会の状況の中で、日系ブラジル人も江藤が言うように、「人間であることの自己証明を日夜迫られている」と考えるべきだろう。とりわけ大人たちは労働現場、子供たちは学校において。また「それは日系移民がすでにやって来たこと」であり、二十一世紀になって、それが今度は日本で起きていることになる。

次回へ続く。