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古本夜話103 黒岩涙香と出版

本連載91「大内三郎『漂魔の爪』と伊藤秀雄『明治の探偵小説』」のところで、「探偵実話」や黒岩涙香の「探偵小説」の出版社に少しふれたこと、そして前回 黒岩の『天人論』に言及したので、この機会に涙香をめぐる出版のことも書いておこう。

涙香の著作を多く刊行した版元に扶桑堂がある。扶桑堂の町田宗七は元米屋であったが、涙香の小説の初期の愛読者となり、また将来売れるのではないかと考え、それまで涙香の小説を出版していた浅草の版元の株を譲り受け、出版社へと転じた。また明治二十五年に涙香が『万朝報』を創刊するにあたって、町田は五百円を出資し、その会計を引き受けた。涙香は掲載小説を無印税で扶桑堂から刊行することを約束し、町田の没後もそれは実行された。これには後日譚があり、『黒岩涙香集』(筑摩書房)を編集した木村毅によれば、町田の息子の歌三は早稲田大学の同級生で、歌三は涙香の『死美人』などのよく売れる十数冊を、自分で装丁し、現代的な小型判に改版し、刊行していたという。涙香の著作が扶桑堂の他に薫志堂、金桜堂、銀花堂、三合館、明進堂、大川屋、古今堂、上田屋、三友社といった近代出版社ではない赤本系の版元から刊行されているのは、扶桑堂と似たような関係があったのかもしれない。

それからあらためて知ったのだが、朝報社が『天人論』や幸徳秋水の『社会主義神髄』の他にも異なる単行本を出版していたという事実である。その全貌は定かではないが、朝報社は涙香の時代だけでも三十年近くを経ているので、その間に多くの出版物を刊行しているであろうし、国会図書館の蔵書からもそれはうかがわれる。しかし『万朝報』の発行や上記の二冊などと異なる分野の朝報社の出版物については、ほとんど言及されていないのではないだろうか。なぜそう思ったかというと、以前に気紛れから出版社も確かめずに、帙入り和本仕立ての碁の本を買い、それこそ積んで置いたのだが、片づける際に奥付を見て、それが朝報社の出版物だとわかったからである。

社会主義神髄

その菊判の和本は『現今名家碁戦』と題され、第一から第三までの三冊で、第三の巻末に「第一、二重版/第四近刊」と記載されている。伊藤秀雄の『黒岩涙香伝』の「勝負事と趣味」の章によれば、涙香が花札、ビリヤード、相撲、五目並べなどの多くの「勝負事」を愛好し、とりわけ五目並べに力を入れ、五目並べを連珠と改称し、東京連珠社を設立し、『連珠新報』発刊後援者となっていたという。そしてまた朝報社遊技部から『前人未発連珠真理』全六冊合本を刊行したことも伊藤は報告している。
黒岩涙香伝
しかし囲碁についての記述はなかったので、この三冊が意外であったこと、それから『前人未発連珠真理』の出版が朝報社遊技部と書かれていたので、遊技部の発行所名から自費出版と判断したことを修正せざるを得なかった。むしろそれらは朝報社のトータルな出版物と考えるべきだという見解に至ったのである。

『現今名家碁戦』の第一に「大正四年五月初」の日付で、涙香が「序」を寄せ、囲碁が「最大の知的遊戯」たるゆえんは譜があってのことで、新聞紙面が「囲碁の本舞台」だと述べ、次のように書いている。

 其中にも万朝報の囲碁は種々の意味と種々の事情とに於て、特に尊重すべき理由のあることは世の定説であるらしい。
 万朝報の以後は掲載を初めて以来すでに数百局に及んだ。其の散逸し又は埋没せんことは碁に遊ぶ人々の最も惜むべしとする所である。依りて更に清写し校訂して出版することとした。(中略)
 明治後半より大正の今に至るまで碁界に星のごとく散布せる群雄の手談は此碁譜に由らずして何に由りて観るを得るか。此碁譜は後来に於て、前記の諸書と共に碁史の正系に属する者と為るであらう。

そして明治三十八年十一月から四十二年一月にかけての百回に及ぶ碁譜が収録されているのだが、それらについて、私が碁を解さないために注釈を加えられない。だから奥付に進むことにする。

第一は大正四年五月の刊行で、発行所が朝報社、発売元は同社内の万弁舎、特約販売所として京橋区の万歳館、日本橋区の大坂屋、大売捌は東京堂を始めとする大手取次の他に、前述した扶桑堂も挙げられている。万弁舎は朝報社の中にあった新聞取次を兼ねた書店と考えられ、その関係から同様の万歳館と大坂屋も販売を引き受けたのではないだろうか。

万歳館のことはわからないが、大坂屋は後の大阪屋号書店であろう。浜井松之助によって創業された大阪屋号書店は日露戦争後に満州の営口で開店し、その後旅順、鞍山、新京などに出店し、明治四十四年に東京店も立ち上がっている。そして取次も兼ね、また囲碁や将棋の本を特色とした出版を行なったとされているが、それは『現今名家碁戦』の販売を引き受けたことや朝報社との関係から始まっているのかもしれない。

最後になってしまったが、編集兼発行人は鈴木直厚なる人物で、彼は長年黒岩家に同居し、万弁舎に勤めていた。そして黒岩の姪といわれる鈴木珠と結婚し、黒岩の義母の鈴木家を継いでいる。また彼は涙香の養父にあたる同族の黒岩直方の次男であり、涙香の一族と最初の結婚の経緯、及び朝報社をめぐる人間関係は複雑を極めている。おそらく面倒見のよかった涙香のことであるから、朝報社の子会社のような新聞取次や書店や出版も兼ねたと思われる万弁舎を設け、鈴木直厚の仕事の便宜をはかったのではないだろうか。

『万朝報』といえば、内村鑑三や幸徳秋水や堺利彦が在籍していたことでよく知られているが、彼らのように著名でなくても、涙香の周辺には鈴木直厚のような、彼を支えた多くの人たちが存在していたにちがいない。それゆえにこそ、長きわたって『万朝報』も発行され、出版活動も営まれたと推測できるのである。

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