佐伯一麦の『鉄塔家族』は三本のテレビアンテナ用の鉄塔が建っている山に関する言及から始まっている。いや、山というより、山の頂に至る四通りの道についての説明といったほうがいいかもしれない。それらを列挙すれば、ひとつはバスの通る道で、民放の放送局、工業大学、冬期休業中の植物園、バスターミナル、デジタル放送用の新しい鉄塔の建つ場所、二つの五階建てマンションへと至る道でもある。二つ目は北斜面を一気に登る車一台がやっと通れる一方通行の道、第三の道は壮麗な仏殿を始めとする二十余の堂塔を数えた大寺院の名残りを惣門とともに示す石段で、それは山の東斜面に当たっている。
そして四つ目の道は次のようなものである。
昭和三十年代後半から昭和四十年代にかけて、「山」の南東の斜面がわずかだけ、分譲地として造成された、その段々に建つ家々をつなぐ九十九折りの道である。
正確にはバイパスからの上り口から、小刻みに何回も折れ曲がった道は、頂上まで車なら十三回ハンドルを切らなければならない。
この地方では、団地というと、共同住宅が並び立ったところを指すのではなく、分譲地のひとまとまりをいうことが多い。ここも「山」の名にちなんだ団地名が付いている。
この団地の特徴といえば、坂道なので車を利用する人が多いのか、人通りがあまりない点だろう。そして、これは四つの道ともに共通することだが、道の途中に、いまどきの日本には珍しく、コンビニエンスストアの一軒も持たない。
買い物は、坂を下りてだいぶ行ったこところにある商店街に行くか、休日に車で郊外スーパーにまとめ買いに行くか、それとも、坂を上って、頂上にあるバスターミナルから出ているバスで、市街地に行って買い物を済ませるか、するしかない(中略)
これだけの傾斜地であるので、ほんらいこの土地は地すべり地域に指定されている。(中略)
そういう危険を伴った土地であることと、買い物に不便なところなので、家を継ぐ若い者たちからは敬遠されるためだろう、空家が目立つ。廃屋となっても建て替えられることもなく、ずっとそのままになっている家、更地になった後、ずっと売り地になってせいたかあわだち草が伸び放題となっている空き地、駐車場に、フロントガラスが割れて全体に錆びが出始めている廃車がずっと止められたままになっている家……。
二世帯住宅用に建て替えたものの、老夫婦の姿しか見受けられない家も多い。この団地内では、ほとんど世代交代は行われていないような印象を受ける。
『朝日文庫』
長い引用になってしまったが、実はこのような「団地」を一年ほど前に仕事で訪れ、同じ印象を受けている。それは富士山の裾野にあり、ローカル線の駅からかなり離れた高台に位置し、一九八〇年代に東京の不動産会社が住宅兼別荘地として開発したところだった。そこに至る直通のバスはないので、タクシーを使うしかなく、二千円を超える距離で、タクシーは曲がりくねった坂道を登っていく。その両側には大きな桜の木が植えられ、桜の時期になると見事に咲き、その後花が散ると道は花びらで埋まってしまうという。その春の景色に魅せられ、移り住んだ人たちもいるらしい。
高台に位置する住宅はいずれも山を崩して造成されたためか、階段で登るかたちの、土台が高い敷地に建てられていた。富士山、桜、高台と確かにロケーションと見晴らしはいいので、別荘地にはふさわしいかもしれないが、住宅地としては不便であるし、向いていないことは明らかだった。それは現実となって表われ、住民たちの世代交代は行なわれず、児童や学生もいなくなり、高齢化する一方であり、かつては地域の代表として市会議員も出していたが、それも住民の減少に伴って不可能になり、バス路線も打ち切られてしまったとされる。そのために買い物は車で郊外のスーパーに出かけ、まとめ買いするしかない。しかも地層は富士山の水脈が通っているために、家の湿気がひどく、しばらく閉め切っておくと、カビが生えてしまうので、売りに出されている物件が多いにもかかわらず、買い手はまったく現れないということだった。
このような私が訪れた山の高台の住宅地ばかりでなく、『鉄塔家族』の中においても、舞台となる「山」とは異なる西方に連なる山が「宅地造成されて大住宅地となり、ほとんど禿げ山の体をなしている」という記述もなされていた。それらの事実からすれば、全国各地に同じようなロケーションと環境の住宅地が一九六〇年代から九〇年代にかけて開発されたと考えられる。それらは、これも『鉄塔家族』にあったが、コンビニの一軒もないというように、山や高台ゆえに平地の郊外のように消費社会化されず、等しく高齢化し、生活環境ゆえに次代に引き継がれず、まさに老いていく郊外住宅地と化しているのであろう。それは高度成長期に建てられた公団住宅のほうの「団地」の姿とも重なってくる。
しかしそれでも『鉄塔家族』の団地はおよそ百戸あり、それぞれに庭があり、住人が様々な趣味や嗜好によって手を入れ、花壇、花棚、鉢植えなどに加え、家庭菜園や雑木林風もあったりしている。それらの光景と海を一望できる眺めは楽しくて気持ちがいい。
このような鉄塔と四つの道がある山の集合住宅に、物書きの斎木と染色に従事する奈穂の夫婦が住んでいる。それは築八年の五階建て、四十四戸の分譲住宅で、その一階の一戸を賃貸で借りて、すでに四年になる。物語が進むにつれ、集合住宅はマンションと呼ばれるようになる。
斎木の名前を知ったのは一九九一年に出された『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)においてだった。そこでは彼は十八歳で、高校を中退して結婚し、妻子を養うために電気工の職についていた。時代設定は八〇年代だったはずで、あれから二十年以上が過ぎたのだ。斎木はもはや電気工ではなく、物書きとなり、東京から離れ、かつての妻子とも別れ、故郷の仙台に戻り、新たな妻と暮らしていることになる。
『鉄塔家族』は啓蟄の言葉に示されているように春から始まり、翌年の春に至って閉じられているので、A5判五四八ページに及ぶこの長編小説は、一年間の時間がゆったりと組みこまれている。その時間の主たる流れはデジタル放送用の新しい鉄塔の工事とそれに続く老いた鉄塔の撤去工事の進行に投影され、物語もそれらとともに進んでいく。斎木夫婦の日常生活を中心として、二人にとって重要な「山」の場所である野草園、喫茶店、料理屋が紹介され、それらでは探鳥会や祭りや句会が催され、工事現場やマンションや「山」の住民たちが様々に召喚され、物語の中に登場してくる。それらの人々に斎木の両親や奈緒の草木染教室のメンバー、斎木の前妻や息子なども加わり、タイトルのように鉄塔の下で集まってくる家族的群像を描いているといっていいし、それは登場人物のひとりがもらす「他人同士なのに、こうやって家族のように集っている」という感慨に象徴されている。
この長い物語の中にあって、斎木の中学生の息子の家出以外に事件らしきものは起きておらず、ただひたすらに小さな物語というべき「山」の日常的生活が描かれ、それらの物語全体がひとつの不可視の共同体となって浮かび上がってくるような読後感を残すのである。近代文学の伝統に連なる私小説家としての佐伯は、想像力によって物語を紡ぐのではなく、自分の見聞や体験をベースにして作品を形成していくライティングによっているので、その手法が最大限に発揮された作品と見なすこともできる。そうしたプロセスを経て、無機質で均一、画一的に描かれていた郊外や混住社会が、かつてない奥行とゆるやかな膨らみを備えて立ち上がってきているように思われる。
それは「山」の混住社会に住んでいるといっても、斎木は元々仙台出身で、「山」や一九五四年に開園した野草園の記憶を人々とも共有する存在であり、決してノマド的外来者ではないことにも起因している。それゆえに彼は「とびきり居心地よい場所」を見出すことに通じているのだ。その「場所」が野草園、喫茶店、料理店などであることは既述したとおりだ。しかもそれらはその地域に根づいたトポスであり、人々が交流を可能とする場所でもある。
「とびきり居心地よい場所」とはThe Great Good Place の訳で、昨年刊行されたレイ・オルデンバーグの『サードプレイス』(忠平御幸訳、みすず書房)の原タイトルに当たる。その邦訳タイトルは、オルデンバーグが家庭でもなく、職場でもなく、コミュニティに必要な「とびきり居心地よい場所」を「サードプレイス」と呼んでいることからきている。それを『鉄塔家族』に求めるならば、ここには家庭と職場とサードプレイスの絶妙な三位一体の配置と提出がなされ、それが功を奏していることによって、かつてない郊外混住社会のコミュニティとしてのニュアンスと色彩を浮かび上がらせているといえるであろう。
そうでありながらも、私は『鉄塔家族』を読みながら、庄野潤三の『夕べの雲』、小島信夫の『抱擁家族』、本連載19の黒井千次の『群棲』などを連想してしまった。そうした意味において、この佐伯の『鉄塔家族』は平成時代に結実に至った、それらの先行作品の集大成、あるいは二一世紀初頭に提出された新たな家族とコミュニティのイメージであるのかもしれない。
なお佐伯は『鉄塔家族』の後日譚として、東日本大震災を含んだ『還れぬ家』(新潮社)も書いていることを忘れないで記しておこう。