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古本夜話376 中山由五郎と上田保『趣味の法律』

前回の『国訳禅宗叢書』を入手した同じ古本屋で、これも小川菊松『出版興亡五十年』でふれ、また私も本連載296や「村上信彦と『出版屋庄平』」(『古本探究』所収)で取り上げてきた上田保の正続『趣味の法律』を購入したこともあり、続けて書いておきたい。これは昭和初期の著名なベストセラーとされ、かつて目にしていたかもしれないが、近年初めて実物を手にしたものでもあった。
[f:id:OdaMitsuo:20140307000239j:image:h120]『国訳禅宗叢書』出版興亡五十年 古本探究

この『趣味の法律』はB6判、箱入千四百ページ近くに及び、本連載296で著者の上田のプロフィルとともに既述しておいたように、特価本業界の大京堂の神谷泰治が手がけた、主として通信販売による伝説的ベストセラーだったようで、それは奥付の重版表記にも表われている。昭和四年十月初版発行、同五年六十版で、私が入手したのは同年の増訂版である。定価三円八十銭との記載からすれば、特価本業界にとって高定価のベストセラーの出現を見たことになり、しかも大半が取次を通じてではなく、通販によっていたわけだから、いかに版元に利益をもたらしたかは想像に難くない。
趣味の法律(『趣味の法律』)

さらに奥付について記せば、著者の弁護士上田保の押印はあるので、初版段階ではどうなのか確認できないが、買切原稿ではなく、印税が支払われる出版だとわかる。その上田と並んで、発行者が四谷区須賀町の中山由五郎、発売兼印刷者が神田区雉子町の神谷泰治、発行所は神谷と住所を同じくする趣味の法律普及会で、発行と発売兼印刷を中山と神谷が分担した出版だと見なせるだろう。

それならば、この中山とはどのような人物なのかということになるのだが、小川が前掲書において、唐突に次のように書きつけている。先の拙稿とも重複するけれど、再引用してみる。

 名簿による通販業者も昔から沢山あつたが、長続きして成功したものはない。中山由五郎氏も「趣味の法律」などは図抜けて成功したものであつたが、氏も世の中を甘く見たので、晩年は「出版屋庄平の悲劇」にある如き末路であつたのは気の毒である。

ここに出てくる「出版屋庄平の悲劇」が村上信彦の『出版屋庄平』(教文館、昭和十七年)をさしていることはいうまでもないだろう。『出版屋庄平』は「出版界の天才」といわれ、『趣味の法律問答』を二十万部売り、書籍通販を組織した人物を描いた長編小説である。それらは本連載296や拙稿でモデル問題も含めて言及しているので、よろしければ参照されたい。

しかし村上の小説と小川の証言に加え、『趣味の法律』奥付の発行者中山の名前を見ると、すべてがそうでないにしても、庄平のモデルはこの中山だと判断していいのではないだろうか。それに上田の言にもその名前が見えるからでもある。

上田は『趣味の法律』の「序」において、ロマン・ロランによる「学問の民衆化を社会に叫びかけた言葉」を引き、次のように続けている。

 洵に民衆化こそは汎ゆる近代文化の基調であり、滔々たる時代の趨勢である。併しながら一切の術語を黙殺して、専門の学理を平易通俗に且つ趣味豊かに説く事は決して容易では無い。況んや冷索なる理智に立脚し、論理の究明を尊ぶ法律に於てや。
 (中略)幸ひに初学者を過たず法理の大様を会得せしめ、併せて学術民衆化に多少の寄与する事を得るならば、蓋し望外の喜びとする処である。
 なお本書成るに就いて、友人中山由五郎君に多大な尽力を煩はした事を付記し、感謝の微意に代へる。

このような文言から、『趣味の法律』が本連載330のロランの『民衆芸術論』ならぬ『民衆法律論』をめざして編まれたことが伝わってくるし、実際に「学術民衆化」の言葉も見えるし、「法律の民衆化」という章があるほどだ。したがって同書は民法と刑法に関して、その法律とメカニズムの具体的な例を挙げて説明し、総ルビ使用も含め、法律の啓蒙書としての一大集成のような内容に仕上がっている。中山への謝辞は同書の企画や発想が彼に負っていることを示し、また共編者、共著者でもあったことを物語っているのだろう。それゆえにここで中山が『出版屋庄平』のモデルだと断定してかまわないように思われる。

民衆芸術論

それは続篇にも表われていて、『出版屋庄平』の中に、庄平が『趣味の法律問答』を出した版元から離反したエピソードも盛りこまれているが、まさに続篇は発行者が中山で変わっていないけれど、発売者は田中孝治、発行所は文啓社となっている。両者の住所は同じ神田駿河台であるので、発売所が神谷の趣味の法律普及会から田中の文啓社へと移ったことになる。田中と文啓社の名前は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に見出せないが、おそらく通販に携わる人物と出版社であろうと推測される。

ただ続篇も判型箱入は変わらず、ページ数は正篇を上回る千五百ページを超えているのだが、こちらは民法刑法ではなく、手形法や会社法などの商法を主眼としているために、正篇に比べ、「法律の民衆化」は促進されなかったようだ。それは奥付の重版表記にも表われ、昭和八年七月初版、同十年八版で、定価三円八十銭、特価二円八十銭という造り本定価設定もまた、それほど功を奏していないことがうかがわれる。だがそれはともかく、この『趣味の法律』はそれから戦後まで続いていく法律啓蒙書の原型を提出したと思われる。

なお『出版屋庄平』は戦後の昭和二十五年に、『出版屋庄平の悲劇』として西荻書店から復刊されている。

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