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古本夜話561 ルナン『幼年時代青年時代の思ひ出』、創元社、大和幻住

前回の『イエス伝』を著わしたルナンは、一八二三年にブルターニュに生まれ、聖職者を志し、パリのサン=シュルピス神学校で学んだ。だがヘーゲルなどのドイツ哲学の影響を受け、『聖書』の文献的研究に傾倒する中で、教会に懐疑的となり、正統的信仰を失い、聖職者を断念し、キリスト教の歴史的研究へと向かった。そして一八六二年に全八巻の大著『キリスト教起源史』を刊行し始め、その第一巻が『イエス伝』なのである。これやはり全五巻からなる『イスラエル民族誌』と並んで、ルナンの畢生の二大著作とされる。
イエス伝(『イエス伝』)

ルナンはその文体や表現において、十九世紀フランス文学の突出した散文家と見なされているが、その文学的香りが最も表出しているのは回想録『幼年時代青年時代の思ひ出』である。この作品は津田穣訳の岩波文庫『イエス伝』刊行と同年の昭和十五年に、杉捷夫の訳によって創元社から出版されている。その「原序」は次のように始まっていて、ルナンならではの文学的、宗教的センスのコアを表出させているように思われる。
 (創元選書版)

 ブルターニュに一番広く伝はつてゐる伝説の一つは、いつの頃とも知れぬ遠い昔、海底に呑みこまれたといふイスの町の伝説である。ブルターニュの海岸の色々な場所で、ひとは伝説の町の沈んでゐる場所がここだと言つて教へられるし、漁師達はそれについて不思議な物語をしてくれる。嵐の日には、確かに、波の合間に、この町の教会の尖塔の先が見えると、彼等は保証する。なぎの日には、鐘の音が、その日の聖歌のしらべをありありと響かせながら、海の底から聞こえて来る。もはや耳を藉す筈もない信者を彌撒に呼び集めようと躍起に鐘を鳴らすイスの町が私の胸の奥にもあるやうな気がする。私は度々そんな風に思ふことがある。時に私は立ちどまつて震へる鐘の音に耳を澄ます。それは、別の世界の声のやうに無限の奥から聞こえて来る。老年が近づくやうになつてから殊に、夏の休息の間に、かうした消え失せたアトランテッドの遠い物語を集めるのを楽しみとした。

この半分ほどの引用ですますはずだったが、つい長いものになってしまった。それはここにルナンのマンタリテの核心がこめられ、まさにこの『幼年時代青年時代の思ひ出』における六編の回想も、そのようにして紡ぎ出された作品に他ならないと思われたからだ。おそらく『聖書』もまたそのようにして読まれ、『イエス伝』が書き上げられていったことを示唆してくれる。

それと同時にここでルナンがいうところのブルターニュの漁師たちの「不思議な物語」は、ロベール・マンドルーが『民衆本の世界』(二宮宏之他訳、人文書院)でふれている行商本の青本が読まれる場としての「夜の集い」を想起させる。このことに関しては私も拙著『ヨーロッパ 本と書店の物語』平凡社新書)で言及しているので、よろしければ参照されたい。
ヨーロッパ本と書店の物語

ルナンが『幼年時代青年時代の思ひ出』を上梓したのは晩年の一八八三年であり、「原序」にあるように、「老年が近づくやうになつてから」「別の世界の声のやうに無限の奥から聞こえて来る」、「消え失せたアトランテッドの遠い物語を集める」かのようにして編まれた作品ということになる。

そのようにして、まず生まれた故郷の町における狂人たちの存在、没落した田舎貴族の運命やその「麻ほぐし」という仕事、指物師の娘がたどった一生などが語られる。また叔父ピエール、「システーム(学説)」と呼ばれる老人、ノエミという美しい少女も記憶の彼方から召喚される。そして小神学校からイシやサン=シュルピスの神学校を経て、合理主義者として聖書批判学へ向かい、カトリックとは異なるイエスと伝道時代の研究へと赴き、『イエス伝』を著わしたところで擱筆されている。

ただ一八六〇年代に古代フェニキア調査のためにパレスチナを訪れ、この光と寂寥の地を彷徨うイエスを幻視したことによって『イエス伝』が書かれる契機となったとされているが、残念ながらそれに関する回想は含まれない。ここで私見をはさんでおけば、このルナンの作品を読みながらピエール・ガスカールの自伝小説『種子』(青柳瑞穂訳、講談社)を思い浮かべたことを付記しておく。
(竹内書店版)

また創元社については本連載457「小林秀雄と創元選書」などでふれ、創元社の東京支店が大阪の本社とは異なる企画で、活発な出版活動を展開したことを取り上げてきた。このルナンの一冊も同様で、巻末広告にはアラン、ヴァレリイ、バルザック、フロオベルなどのフランス文学書が並び、太平洋戦争の始まる前年の出版物リストのようにも思われない。それに『幼年時代青年時代の思ひ出』の、これも「原序」に示された「世界の目的は精神の発達である。そして精神の発達の第一条件は、自由である。この見地からすれば、一番悪い社会状態は、神政の状態である」という一節は大東亜戦争下における日本社会のメタファーとして読むことができる。

それに加えて、装幀は大和幻住とあるが、これはフランス文学者の渡辺一夫、装幀者としての六隅許六の別名だと推測される。これらのフランス文学出版リストと「大和幻住」なるペンネームは、戦争下におけるフランス文学書出版とフランス文学者の位相を伝えていよう。
なお『幼年時代青年時代の思ひ出』は戦後になって、『思い出』上として、岩波文庫に収録されている。
思い出

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