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(集英社文庫)
前回の森絵都の『永遠の出口』の中で、主人公の紀子が高校生になり、欧風レストランでアルバイトをする一章が設けられていた。しかしその店名と上質な料理には言及したが、そこでのアルバイトの具体的な仕事と人間関係についてはふれてこなかった。それはそのレストランが郊外のファミレスではなかったからだ。

ところが今回の畑野智美の『国道沿いのファミレス』はまさにチェーン店のロードサイドビジネスに他ならないファミレスを舞台とする物語であり、本連載51などでもコンビニをトポスとする小説を紹介してきたけれど、ついにファミレスも、そのような物語を提出するトポスへと成熟していったことになる。拙著『〈郊外〉の誕生と死』で述べておいたように、ロードサイドビジネスはファミレスを先駆けとするもので、それは一九七〇年のすかいらーくから始まり、ロイヤル、ロッテリア、デニーズなどが続き、八〇年代に急成長し、確固たる外食産業を形成するに至ったのである。
『国道沿いのファミレス』を書いた畑野智美は一九七九年生まれとあるので、ファミレスだけでなく、ロードサイドビジネスと郊外消費社会とともに成長した世代に属している。それに主人公たちに告白させているように、子供の頃、ファミレスは洋風の建物が「かっこ良く」、誕生日やクリスマスには「家族で行く特別な場所だった」のである。またこの世代はファミレスがアルバイトの場ともなり、実際に畑野もアルバイトをしていたようだ。さらに付け加えれば、この世代は二〇〇〇年の大店法廃止後、新たに大店立地法が施行されたことによって、大規模な郊外ショッピングセンターの出現を目撃し、その主要な客層を形成することになったといえよう。畑野の作品はそれらがもたらした社会的風景やハビトゥス、及び家族や男女関係の変容も含め、トータルとしての現在を描こうとしているように思える。しかもそれはネット社会の偽りの情報の伝播によって生じるサラリーマンの個的事情、外国人との混住社会が発生させる都市伝説的な犯罪などにも及んでいて、かつて読んだフランスの社会学者エドガール・モランの『オルレアンのうわさ』(杉山光信訳、みすず書房)を想起してしまった。これは一九六〇年代末にパリから離れた地方都市オルレアンで、何人かの女性が、ユダヤ人が営む婦人服店の試着室で姿を消し、地下室から外国の売春街へさらわれたという噂が広まり、その実態をレポートしたものだった。だが実際には行方不明になった女性など一人もいなかったのである。
まず『国道沿いのファミレス』もそのような『オルレアンのうわさ』的物語構造を有していることを記しておく。この物語は主人公の佐藤善幸が六年半ぶりに故郷の町に帰ってくるところから始まっている。彼の実家はシャッターが閉まっている店が多い商店街にある電器屋だったが、そこには寄らず、その外れのゴールデン街にあるスナック茜に向かった。そこは幼馴染のシンゴの母親の茜さんが営む八畳に満たない狭い店で、その内装はまったく変わっておらず、「タイムスリップしたような不気味さ」を感じさせた。茜さんはいなかったが、シンゴはいて、さらに高校時代に黒髪の清純派として知られた吉田さんも姿を見せた。そこまできて、「僕」=ユキ=佐藤君の自己紹介がなされる。
この町で生まれ、この町で育った僕は高校を卒業したのと同時に町を出て、東京の大学に進学し、東京に本社がある外食チェーンの会社に就職した。
和食レストラン、居酒屋、イタリアンレストランと展開している中で、配属されたのはファミリーレストランの「チェリーガーデン」だった。都内の店舗で三年くらい働き、その後は本社勤務という枠での採用だ。あと半年も経てば本社勤務になるはずだった。しかし今年の夏の初めに問題が起こり、転勤が決まった。転勤先の店舗があるのがこの町だった。
東京から電車で一時間半、関東地方からポンッと弾き飛ばされたと中で最北端の地だ。(……)
その店舗は住宅地を抜けた国道沿いの果樹園の木々の間にあるボウリング場やレンタルビデオ店と並んでいた。それは次のように描写される。
レンガを積んだように見せかけた外壁に茶色い屋根、広い駐車場兼駐輪場、屋根の上に掲げられた大きな看板。ファミリーレストランの基本を絵に描いたような構え。僕が幼稚園の頃にできて以来、何も変わっていない。しばらくここで働くのかと思うと気分が沈み、泣きたくなった。
「僕」がこの生まれた町の店にやってきたのは、「問題を起こした社員」として、地方の店に飛ばされたからだ。それはインターネットの掲示板に「チェリーガーデン都内S区S店の社員Sは高校一年のウェイトレスに手を出し、散々やりまくって捨てた」と書き込まれたことが発端だった。この掲示板は元アルバイトから社員になった人が開設したもので、アルバイトたちが当たり障りのない新メニューのおすすめポイントなどを書き込むものだったが、そこにこの当たり障りのありすぎる一文が書き込まれたのだ。都内店舗多しといえども、「S区S店の社員S」となると、「僕」しかおらず、しかも「女子高生」ではなかったが、「アルバイト」のウェイトレスに「手を出し」て、「やりまくって」いたのである。それが転勤辞令の出た理由となった。情報が伝わるのは速く、この店にまで「ロリコン社員」という噂が入ってきているようだった。だがこの故郷の町のチェリーガーデンは「幼稚園の頃にできて以来、何も変わっていない」。
それに古びて「何もかもが色あせた駅」と不釣合いな銀色に光る自動改札、シャッターが閉まっている商店街、「タイムスリップしたような不気味さ」を感じるスナックに対して、高校生の頃に爆発した製薬工場の跡地には、サクライというショッピングセンターが開業していた。吉田さんの言葉を借りれば、「すごいんだよ。広いスーパーがあるし、洋服もたくさん売っているし、大きい本屋さんも入っているし、雑貨屋もあるし、レストランもいっぱいあって、シネコンまであるんだよ」。まさに今世紀に入って、全国に増殖した大規模な郊外ショッピングセンターの典型に他ならない。
そうした故郷の町とチェリーガーデンを主たるトポスとして、『国道沿いのファミレス』は、森絵都の『永遠の出口』におけるレストランのアルバイトの後日譚的エピソードをコアとし、それに「僕」の家族、新しい恋人、シンゴの結婚問題などへと展開されていく。だがそうした舞台装置は先の引用からうかがわれるように、書割めいたニュアンスがつきまとっている。畑野がこの作品で描こうとしているのは、それらのトポスの輪郭ではなく、そのような環境に置かれることによって変容してしまった人間関係、もしくは何らかの欠落のようにも思われる。例えば、バイト上がりの社員と「僕」のような新卒採用社員は「先住民と開拓者」の比喩で語られているから、単なるアルバイトがどのようなポジションにあるのか推測がつく。また「先住民と開拓者」の関係が「僕」の転勤につながったといえる。それが登場人物の造型や行動にも表出し、次第にそれが「僕」の家族、とりわけ父親との関係に由来すると判明してくる。だが当初は畑野の個人の資質によっているのではないかとも考え、内田春菊のコミックと通底する女性特有の冷徹さを感じてしまったことも書きとめておくべきだろう。
それは「僕」が転勤するにあたって、見送りにきた「一年付き合っていた彼女」に示す態度、及び彼女の直截的反応に最もリアルに表出している。彼女こそはまさにあの「アルバイトのウェイトレス」なのだ。
(……)新宿駅のホームまでの見送りに来てくれた彼女に、遠距離っていうほどでもないし、大丈夫だよね?と聞かれた。大丈夫だよ、会いにくるよと嘘でもいいから言えばよかったのに、言葉が出てこなかった。お互いにしばらく黙り込んだ後、彼女は僕の形態電話を取り上げ、本来折る方とは逆に折り、ベンチに投げつけ、踏み潰した。そして黙って帰っていった。周りにいた人達が唖然としが顔で見ている中、僕は携帯電話を拾い上げ、荷物の奥に突っ込み、急いで中央線に乗った。未練はない。もともとそんなに好きじゃなかった。
「僕」は結果として、「女子高生」ではないけれど、ネット上の「散々やりまくって捨てた」という書き込みを地で行ったことになる。もちろん先述したように、読み進めていくと、このような「僕」の女性観とその関係の根幹には父親の存在が大きく横たわり、それが「僕」のエロスを形成してきたとわかってくるけれど、ここに表出しているのはひとつのアパシーのかたちのように思われてならない。それは物語は異なっているが、本連載136の高村薫の『冷血』を覆っていたアパシーと通底しているのではないだろうか。
ただ『国道沿いのファミレス』のほうは『冷血』的結末ではなく、そのようなアパシーから脱け出し、それなりのハッピーエンドを暗示させてクロージングに向かうわけだが、物語全体にアパシーが付きまとっているという印象が抜けない。新宿駅の別れのシーンが反復されるのではないかというオブセッションから逃れられないのである。
もはや故郷の町にしても、そこにも何のノスタルジーも喚起されていない。それは家族も幼馴染も同様だし、どこかでコミュニケーションが切断されてしまったようなニュアンスがある。男女関係にしても人間関係にしても、場所や職場が異なれば、季節ごとに気軽に脱ぎ捨てたり、変えたりできるもののように設定されている。これらのすべては郊外消費社会が内包し、体現しているファクターのように思われてならないのだ。それは携帯電話が象徴的に表象し、男女関係のつながりのメタファーとして機能している。「僕」は壊れた携帯電話を触媒として、ショッピングセンターで、機種の変更に乗じ、綾ちゃんという新しい彼女と出会うのだが、それは疑似オイディプス的関係を生じさせることにもなってしまう。
そのような関係と相俟って、シンゴの出生の秘密も明らかにされる。一九八四年に外国人の二人組がゴールデン街のスナックに強盗に入り、茜さんをレイプした。それで生まれたのがシンゴだったのだ。茜さんはフランスに留学していた時の恋人がシンゴの父親だとか、スナックの常連客は酔ってそれぞれが父親だと語っていたが、それが「不細工」な顔の茜さんに白人とのハーフのようなシンゴが生まれた真相だったのである。商店街から外れた薄暗い道の奥にひとつの疑似家族が営まれ、シンゴは成長し、「僕」の物語とコントラスト的に市内の大学に進学し、商店街の先にある図書館で司書となり、中学時代から好きだった同級生の吉田さんと付き合い、障害をはねのけ、結婚へと至るストーリーが併走している。それは「国道沿い」ならぬ「ゴールデン街という路地」の物語であり、シンゴの出生が明らかになる物語の終盤に及んで、あらためて畑野が他者の意味を問うように、『国道沿いのファミレス』をユキとシンゴの二人の物語として描いていたことに気づかされる。そうして物語につきまとっていたアパシーも溶解していこうとしていることも。