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古本夜話563 リシャル著、大川周明訳『永遠の智慧』

 もう一冊、警醒社発行の翻訳書があるので、続けて紹介してみる。それはリシャル著、大川周明訳 『永遠の智慧』で、大正十三年に刊行されている。以下リシャールと表記する。

 この一冊を古本屋で買い求め、それからしばらくしてこれも本連載204でふれた、大正四年から十五年にかけての『秋田雨雀日記1』(未来社)(未来社)を読んでいたら、エロシェンコやタゴールと並んで、リシャールが出てきた。そこで、雨雀はリシャールのことを「テオソフィの人で、インドを経てきた人で、スウェデンボルグや、アンナ・ペーゼントのことを話した」と書いているのを読んだ。それは大正五年のところだが、リシャールとしばしば会ったり、訪ねたりして、ウパニシャッドのことなども話したりしているとわかる。これらの雨雀の日記は大正時代の東京の文化的環境の国際化の一端を伝えていた。

秋田雨雀日記

 大川周明が 『永遠の智慧』の「序」に記しているところによれば、「仏蘭西の鉄人ポール・リシャル氏」は大正四年から九年にかけて、日本に滞在して「静寂なる思索生活」を送り、「古今東西の名著を渉猟」し、「古賢先聖の言を集めて之に一貫の脈絡を与へ、一言一句を増減せずして、自ら一個の文章たらしめたるもの」を編んだ。その英訳を原本として、大川が訳し、松村介石の道会の季刊誌『道』に連載し、 『永遠の智慧』が単行本にされたことになる。それはリシャールが日本を去りて四年後のことで、現在彼はヒマラヤ山中で行者の生活を送りつつあると報告されてもいる。

 確かに大川がいうように、この七章七十節近くに及ぶ『永遠の智慧』は聖書類、仏典、ギリシャ・ローマ古典、インド・中国古典などの引用からなる一冊である。それらの中において最も頻出しているのが、出典を『ヘルメス』とする引用文で、その初出が第二章一〇節にも見えている。それは次のような一節だ。「言語は異なるも人は到処一味なり。故に其の理性もまた一味にして、理性の声は之を翻訳すれば埃及に於ても、印度に於ても、希臘に於ても、更に異なることなし」。なおルビは省略した。この出典はヘレニズム時代のアレキサンドリアを中心に展開された哲学、宗教的作品、占星術、錬金術、魔術をめぐる『ヘルメス文書』(荒井献、柴田有訳、朝日出版社)、及び「ヘルメス叢書」(有田忠郎他訳、白水社)と見なしていいだろうし、ジョルダーノ・ブルーノやヤコブ・ベーメからの引用が目立つのも、これらと連鎖していることに由来しているとわかる。

ヘルメス文書

 そのように考えると、先に引用した雨雀のいうところのリシャールがテオソフィ=神智学の人で、その宗教的思想環境を、本連載247のスウェデンボルグ、及び同148のブラヴァツキー、彼女の亡き後、印度の神智学協会の主導者となった、アンナ・ペーゼント=アニー・ペザントなどとともにしていたらしいことが浮かび上がってくる。それは大正時代において、大川はキリスト教と袂を分かった日本教会=道会に入り、日本への回帰とアジアへの覚醒に至る中で、そのような神智学人脈の近傍にあったことを物語っている。

 そのリシャールの詳細なプロフィルを教えられたのは、大塚健洋の『大川周明』(中公新書)においてだった。この「ある復古革新主義者の思想」というサブタイトルを付された評伝の中に、「ポール・リシャールとの出会い」なる一節があり、そこにはリシャール夫妻の写真も掲載されていた。そしてこの「フランスの哲学詩人」が頭山満、内田良平、北一輝などの「日本の国家主義者たち」に多大な影響を与え、とりわけ大川の場合、一年間起居をともにしたこともあって、その感化は計り知れないとも書かれていた。
大川周明

大塚のレポートによれば、リシャールは一八七四年南仏の牧師を父として、アラビア人の血を引いて生まれた。モンペリエ大学などで哲学、神学、法学博士の学位を受け、長老派の牧師として、社会事業や青年教育に尽力し、一方でパリで弁護士も務め、トルコ人銀行家の娘ミラ・アルファッサと結婚するに至った。

リシャール夫妻は物質的欲望に基づく西洋文明の行き詰まりと新たな精神文化の創造を主張し、ヨガに強い関心を有していたことから、一九一四年に光を求めてインドに向かった。そしてヨガの実修に励み、哲学雑誌『アーリヤ』を創刊する。大川が 『永遠の智慧』の「序」で述べていたように、それは『アーリヤ』に発表され、大川自身によって翻訳され、松村介石の『道』に連載されたものであった。

しかしリシャールの予言したように、第一次世界大戦の勃発もあり、一年足らずでインドを離れざるを得ず、フランスへと帰国した。だが一六年にリシャール夫妻は再びアジアへと旅立ち、日本へも立ち寄ったところ、当初数ヵ月の予定が四年間の滞在に及ぶことになったのである。それは日本が深く夫妻の魂をとらえたからで、そうした中で大川は夫妻と出会い、ミラ夫人からフランス語を学ぶようになり、頻繁な訪問が高じ、ついに千駄ヶ谷のリシャール家に同居するに及んだのである。リシャールは大川の依頼によって、“Au Japon”=「日本へ」を創作する。それは日本を「正義の国」として、「七つの栄誉」と「七つの使命」を説いたもので、これは大塚の著書に収録されている。

大川はこれに筆舌を尽きぬ感慨を覚え、その訳稿を携え、国家主義者の川島浪速を訪ねると、川島も絶賛し、これを東亜の識者に配布しようと決意した。そして自らの序文、大川の邦訳、松平康国の漢訳、ミラ夫人の英文も加え、大正六年に小冊子『告日本国』(山海道出版部)を刊行したのである。これは後の昭和十六年に『告日本国』(青年書房)として出版されている。また大正十年には同じく大川訳で、リシャールの『第十一時』(大鐙閣)が刊行されているようだが、こちらは未見である。

なおリシャール夫妻は大正九年に再びインドに向かい、リシャールはそれから大川が記しているように、ヒマラヤを経て、エジプト、スイスなどを通歴し、晩年はニューヨークに住み、一九六六年に九二歳で亡くなった。一方でミラはインドにとどまり、ヨガ道場の責任者として、その生涯を捧げ、人々からマザーと尊称されたという。

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