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古本夜話612 ゾラ『金』、博文館、大鐙閣

前回、ウィットフォーゲルの『東洋的社会の理論』収録の「経済史の自然的基礎」というフランス産業史の発展から、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」の諸作品を想起し、それにゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』を重ね合わせてしまったことを記した。
恋愛と贅沢と資本主義(講談社学術文庫)

これはたまたま偶然かもしれないが、美作太郎が『戦前戦中を歩む』の中で、旧制高校時代にゾラの『金』を借りて読んだことを語っている。それは大正十二年のことだった。

 この『金』を読み終ったとき、私は強い衝撃を受けた。そこには、資本主義経済の中でうごめき生きる人間の姿その制度の最も収斂された闘技場(アレナ)としての株式取引所の実態が如実に克明に描き出されていた。息もつがずに、私は読んだ。心の目から、うろこが落ちてゆくような想いであった。
 およそフランス文学に関心のある人であったら、ゾラの壮大な「ルーゴン・マッカール叢書」全二十巻の連作の世界文学史上における役割を知っているはずである。ゾラはここで、(中略)社会の現実に切り込んでゆくリアリズムとしての自然主義文学を作品化してみせたのであった。(中略)
「ルーゴン・マッカール叢書」は第一巻「ルーゴン家の運命」(一八七一年)にはじまって一八九三年に完結するが、『金』は一八九一年に出版されている。ところが、この本の邦訳は戦後手に入らず、これを含むゾラの全巻も出されていない。そして、ゾラの作品といえば、それぞれ前記叢書の一編となっている「居酒屋」と「女優ナナ」がまず取り上げられ、それについで「ジェルミナール」が一部のまじめな読者に読まれているようであるが、「金」は読もうにも訳本がなく、ゾラを紹介したフランス文学の入門書や伝記辞典の中でも、これに関連した記述を見出すことさえ困難なくらいである。

少しばかり長い引用となってしまったのは、この美作のゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」に関する記述が、大正時代から戦後の昭和後半に至るまでの翻訳状況を簡潔に伝えていることによっている。また美作にとって、『金』の影響が大きく、これを読んだことがきっかけとなって、ゾラからバルザックやディケンズに向かったという。それは当時、法律や経済を専攻する大学生にとって、ゾラやバルザックが描いた資本主義経済が形成されていく十九世紀社会の実態が、あまりにもリアルなものとして迫ってきたに相違ないことを教示しているからだ。

ところがこの『金』も含めた「ルーゴン=マッカール叢書」の翻訳が、本連載191192で既述しているように、今世紀に入ってから、論創社の「ルーゴン=マッカール叢書」と藤原書店の「ゾラ・セレクション」が同時期に刊行され始め、両者を合わせると、ようやく日本語で「叢書」の全二十巻を読むことができるようになった。フランスでの最終巻『パスカル博士』の刊行は美作が述べているように一八九三年なので、完結後一世紀以上を経て、初めて邦訳が揃ったことになる。私は論創社版の一三冊のうちの十冊の翻訳に携わったこともあり、最後の一冊として、戦後の未邦訳『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』を刊行した際には感慨無量の思いに捉われたことも告白しておこう。
パスカル博士 ウージェーヌ・ルーゴン閣下

『金』は野村正人訳により、藤原書店版「ゾラ・セレクション」に収録されているのだが、ここでは美作が読んだ大正時代の『金』、私もかつての本連載195「ゾラの翻訳の先駆者飯田旗軒」のほうにふれなければならない。私が所持している『金』はB6判上製函入で、表紙にはゾラのポートレートが描かれ、七八二ページに及ぶ大冊であり、大正十一年第三版として大鐙閣から刊行されている。この出版社に関しては拙稿「天祐社と大鐙閣」(『古本探究』所収)を参照してほしい。また訳者の飯田についても、前述の本連載195にふれて頂けたらと思う。それは飯田もその「序」で、『金』が「取引所―株という金の機関が如何に実用されてゐるか。金対人間を根柢から研究」する作品と見なしているからだ。
金 (大鐙閣版) 古本探究

ゾラは「叢書」において、章タイトルを立てることはないのだが、飯田は最初の章を「株式取引所」として始めている。「仏蘭西は巴里の株式取引所の広場にシヤンポウ軒という流行ハイカラの料理家がある。主に取引所の連中を顧客(とくい)にしている喫茶店用談所兼帯の家で」という書き出しは訳文がスムースに流れ、飯田の語学力と文章力の双方を伝えるものがある。そこから株式取引所の実態と資本主義経済のメカニズムが立ち上がってくるようでもあり、美作が「息もつかずに」読み、「心の目から、うろこが落ちていくような想い」を味わったことをあらためて実感してしまう。

もちろん野村訳も、日本のバブル経済とその崩壊を彷彿とさせる金融用語を駆使しての優れたものであるけれど、一世紀近く前に臨場感あふれる訳文によって、ゾラと同様に株式取引所に集約される資本主義経済に目を向け、いち早く『金』を翻訳していた飯田の先見性は特筆すべきものではないだろうか。そうした今では忘れられた文学者たちによって、日本の近代の翻訳の一端が担われてきたことも、ここに明記しておこう。

さてこの『金』の版元だが、美作は本文で博文館と記し、注において、大鐙閣だと思いこんでいたけれど、博文館だったと述べている。ただ『博文館五十年史』では飯田旗郎とあり、それが誤まりで、自分の記憶では旗軒として残っている旨を述べている。私も迂闊にも大鐙閣から出されたとばかり思っていた。それは同時期に飯田訳、しかも同一判型で、「叢書」ではないけれど、『労働』と『巴里』が刊行されていたからだ。

そこで『金』をもう一度確認してみると、「改版上梓に就いて」という一文が置かれ、前版版元記載はないのだが、これは『大阪毎日新聞』に大正三年三月から十月にかけて掲載されたものとあった。大鐙閣初版刊行は大正十年であるから、その前に一度上梓されていて、それが博文館版だったということになる。『博文館五十年史』も確認してみると、大正五年のところに、「原書ゾラ・飯田旗郎訳」の『金』が掲載されていたのである。これはもちろん実物は未見だが、国会図書館で確認すると、本名の旗郎ではなく旗軒訳とあり、『博文館五十年史』の間違いだとわかる。それでも年代的に考えれば、美作は大鐙閣版で『金』を読んだ可能性が高いと思われる。
金(博文館版) 

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