『VOLO』第3号 昭和50年10月1日発行
Ⅰ 三十年代へ――
蒼ざめて行く視界の中を風が吹き抜けて行った。風景を視ていたのだった。風が樹々を揺らし、微かな鳥の羽搏きが聴こえた。陽の光で暖められ彩どられた硝子窓と風の流れで舞踏するカーテンは、もはやわたしの視界には存在しなかった。
わたしは独り、わたしがわたしでなくなる一瞬の陥没の刻が塗り込められた風景の中に措かれていた。何も視えなかった。何も聴こえなかった。その時わたしは、化石のような沈黙と時間の風化して行く感覚に捉われながら、胎児のように躯を丸めて、存在の失墜と崩壊の現前化を一瞬垣間視たのではなかったか。
風景の中で存在は溺れ、溶解し始めていた。時間の溶暗に包囲され、風景もまたわたしの現前に変蝕されて行った。風景、それは存在が措かれた総体的な意味での場所とでも云おうか。
風が止み、風の流れが運んだ不協和音が脳裏で響いていた。存在の浸蝕はもはや疑うべくもなかった。不意討ちのように襲って来た不安と怯え、滑り落ちて行った外界の事象、通り過ぎて行った様々な思念、かくしてかつての風景は闇に閉ざされ、存在は宙吊りにされながら、何のアリアドネの糸も持たず、風景の迷宮の中を彷徨せざるをえなかった。
「不安は眩暈と共に始まる」。① 眩暈、そしてまた眩暈。この眩暈は、何処から、何者によって惹き起こされたのであったのか。意識の狙撃兵が放った魔弾であったのか。螺旋的な眩暈の裡で、確かに何ものかが喪われて行った。落下して行きながら、わたしの眼はその喪われたものの像を瞬間的に意識の裡へと取り込んだ。
呪われた境遇にそれは違いなかった。
わたしたちの精神の奥処で、総体的な意味において、人間存在が凝視められねばならぬ時が、個人史の領域にあっては、不可避的にやって来るように思われる。その時こそ風景は変質し、存在もまた過去の姿を繰り返すことは不可能となるだろう。風景と存在の間に生じた裂け目、その中に引き裂かれたものが蠢いている。無数の断片として散乱した風景と存在を嗚咽する意識が覗いている。そして裂け目の中から意識が表出し、風景と存在を囲繞し、そこに新たな心象が生誕し、開示されて行く。
人は存在し、風景の中に措かれている。意味の錯乱を背後に、わたしは意識によって、風景と存在の不可視の関係性を視ていた。ひとつの〈企て〉の設定、それは風景と存在との回路を見出そうとする行為であり、両者の間隙の内的距離の測定である。
わたしにとって、意識の介在によって、風景と存在の連環の彼方にひとつの世界像を浮かび上がらせることが戦慄に充ち、不安の理に定着された眩暈、そしてこの絶えざる失墜感の意味を問うことと関係性を持つということは、疑いをはさむ余地はないように思われた。いやそれにもまして、わたしは把握せざるような内的要請と強迫観念に呪縛されていたのであったのだろう。
そんな時だった。一九三十年代の問題が、わたしの個人史と交錯し、風景と存在の回路を切り開いて行くのではないかと気づいたのは。啓示とは云うまい。かくしてわたしは時間のラビリンスを遡行し、薄明の中、熱病の如きおこりに震えながら、三十年代へ向けて歩行し始めねばならなかった。
一九三十年代、それは周知のように、両大戦間の時代であり、二九年に始まる世界金融恐慌を皮切りに、三一年満洲事変、三三年ナチス政権、三五年仏人民戦線内閣成立、三六年スペイン市民戦争といった世界的な規模で、多くの社会事変が勃発した時代であった。
第一次大戦後の束の間の静謐と平安、その背後に潜むパセティックな旋律、かかる三十年代の重層的構造の深部には、次なる凶事への予感と予兆が秘められていたに違いない。一瞬の午睡の夢は破られ、人々はまた混沌の中に投げ込まれる。そして世界の悲劇性を象徴する如く、様々な社会事実はその最終的総体としての第二次大戦へと雪崩れて行く。これが世界史が初めて所有した危機の時代である三十年代の社会的回路と見てよいだろう。
かかる切迫した情況を背景に、文学、思想運動は如何なる軌跡を描いて行ったのか。三十年代の擾乱と錯乱の中で、文学、思想はどのように世界を包囲して行ったのか。またその強いられた回路の行方は如何なる地点へと行き着いたのか。
かかる問題こそは、ここ数年にわたってわたしの脳裡を離れぬものであった。わたしのこの持続する意識には三十年代の問題がわたしたちを囲繞している七十年代の情況と密接な関係を持つのではないか、また三十年代の問題こそは、人間、社会、歴史、文学、思想と云った多くのものを含みながら、現在に至るまで未解決のまま放置されているのではないか、と云う強迫観念に相似したものが潜んでいる。
三十年代とは確かに擾乱と錯乱に充ちた磁場に他ならない。解体と喪失と云う絶えざる危機の中で、自らのめり込みそうな深淵を凝視しながら、危うい均衡の裡でほとばしり出たもの、それこそが目眩めくような磁場である三十年代が孕んでいた問題ではなかったのか。そしてわたしたちの情況の中に、かかる三十年代と通底する様々の問題が、内的に顕在化されて行く過程を、わたしは視ているような気がしてならない。
かかる三十年代論の具象化として、わたしは次のような視座を定置した。即ちそれは――「社会学研究会(コレージュ・ド・ソシオロジー)と「日本浪曼派」の位相――と云うものであった。この二つのグループこそは、フランスと日本の三十年代を象徴するようにわたしには思われた。② 日本においては、二十年代の「プロレタリア文学運動」が保田与重郎等の「日本浪曼派」へと移行し、フランスにおいては、やはり二十年代の「シュルレアリズム運動」が、G・バタイユ、M・ブランショ、P・クロソウスキー、M・レリス、R・カイヨワ等の「社会学研究会」へと移行して行った。この過程こそは文学史的に見れば、まさしく陽画から陰画へと云った印象を与えるであろうが、わたしにとっては三十年代論の核心が秘められているように思えてならないのだ。③
ここでは、この両者を論じるのではないので、これらの共通性、問題性と云った詳細は省略するが、これだけは云っておかなければならない。この両者を結ぶものこそは、「日本浪曼派」の落し子である三島由紀夫の存在であり、〈死〉だと云うことを。それは三島由紀夫のバタイユ体験こそが、三島の後期の文学を彩っているものであり、また〈死〉の発条となったと考えられるからである。わたしにとっても、三島由紀夫の〈死〉の触発は「社会学研究会」と「日本浪曼派」の関係性に目を向け、三十年代へと遡行し、わたしたちの七十年代を逆照射すると云う視座へのひとつの要因であったと云えるからだ。④
この―「社会学研究会」と「日本浪曼派」の位相―は私の怠惰ゆえに何年間も放置され、そしてここでも書かれない。しかし希わくば、未だ書かれざる「G・バタイユ論」を含んだ一連の―「社会学研究会」と「日本浪曼派」の位相―のための序奏として、この論稿が存立することを期そうと思う。
ここでは、アメリカの三十年代が扱われる。前述したように、日本においては、「プロレタリア運動」から「日本浪曼派」、フランスにおいては、「シュルレアリズム運動」から「社会学研究会」と云った二十年代から三十年代にかけての推移は、アメリカにおける二十年代の「失われた世代」から三十年代の「ハードボイルド派」への移行と同質なものであるように思われる。(我田引水的だと云う批判も承知の上だ)。かかる視座から、二十年代末から三十年代にかけて発生し、現在まで持続している「ハードボイルド派」を素材とし、アメリカ社会、否、それは多分全ての近代社会の投影となろうところの風景を論じたいと思う。
断わっておくが、わたしにとっては「ハードボイルド派」の問題も三十年代論の延長線上にあると云うことである。そしてまた、—「社会学研究会」・「日本浪曼派」・「ハードボイルド派」— と云う連環は、べつにこじつけではなく、わたしにとっては共通した基本タームを秘めているように思われるのだ。
それは〈近代〉と〈死〉と〈神〉である。
註① キエルケゴール『不安の概念』
註② あるいはこれらとは別にフランスと日本において三十年代に画期的な作品が二つ発表されたことを掲げてもいいだろう。それは云うまでもなくサルトルの『嘔吐』(三八年)であり、埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』 (三九年)である。
註③ 「社会学研究会」は三六年、「日本浪曼派」は三五年に設立された。前者はシュルレアリズムからの離脱者、後者はマルクス主義、プロレタリア文学運動からの転向・離反者が多くを占めている。
註④ 三島がバタイユの影響―特に『エロティシズム』―を示し始めたのは多分『憂国』(六十年)からであると思う。
(つづく)
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