出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

浅岡邦雄『〈著者〉の出版史』

浅岡邦雄『〈著者〉の出版史』 森話社)が出た。これはサブタイトルに「権利と報酬をめぐる近代」と付されているように、明治の「出版業の世界もいまだに大きな経済的市場となり得ていなかった」時代における「著者と出版者の経済的営為」を論述した手堅い研究書である。
〈著者〉の出版史

浅岡は日本出版学会員で、『日本出版関係書目1868−1996』 の刊行に際して、私を誹謗中傷した稲岡勝と並んで共編者であるから、私と反目し、実際に当てこすりも記されている。だが私は彼らと異なり、それはそれとして、とても啓発されたので、ここで書評しておくべきだろう。

私は学会の近代出版史研究のスタンスに通じていないが、浅岡は近世出版史研究の方法論を引き継ぎ、それに長年の大学図書館における資史料の博捜体験と前田愛の視座を重ね、近代出版史へと投影させているように思われる。その特色は第一次資史料の発見と駆使による新たな近代出版言説の提出であろう。

『〈著者〉の出版史』 にはそれらが遺憾なく発揮されている。だが大半が出版史の専門的領域に属する研究であり、広く新聞や一般誌での書評や紹介は期待できないので、その内容を簡略に挙げ、読者に同書のイメージだけでも伝えておきたい。以下に収録論文の内容を示し、斜線の後に図版入りで使用されている主な出版資史料を記す。

1、中村正直西国立志編』における同人社版と奎章閣版の関係/双方の原本の扉と奥付。
2、明治前期の著作権法「版権条例」「版権法」下の雑誌の権利と無断転載雑誌の動向/雑誌の版権登録の実例。
3、著訳者による医学書蔵版出版と「同盟医書販売組合」の立場/「同盟医書販売組合」の設立をめぐる新出の一件文書全文とその翻刻
4、中江兆民『一年有半』『続一年有半』の著作権譲渡出版と印税/『官報』掲載の著作権譲渡登録。
5、春陽堂の藤村『若菜集著作権譲渡出版と鴎外『即興詩人』印税出版/両書の奥付印章部分。
6、小杉天外の出版契約/その契約書と印税領収書。
7、籾山書店の出版と経済/その契約書と作家の印税領収書。

地方新聞における小説の再掲載と岩野泡鳴の出版日記に関する論考は省略したが、このようにそれぞれのテーマと第一次資史料を配置してみれば、浅岡の方法論とその視座の輪郭が浮かんでくると思う。

私にとって最も教えられたのは 5 と 6 であるので、それらにふれてみよう。まず 5 の春陽堂著作権譲渡出版だが、これは簡略に言ってしまえば、印税の支払いを必要としない原稿買い取りを意味し、いくら増刷を重ねても、著者には印税がもたらされるものではなかった。これらの事情は浅岡も書いているように、出版業界の規模からしても文芸書の売れ行きは大部数を望めず、当時の文芸書の出版契約がそのような商習慣によっていたこと、著作者に権利、法律意識が希薄だったこと、発行してほしい著作者とそれを決定する出版者との力関係などが大きく作用していたのである。

浅岡はそれが奥付の相違に見られるとして、一〇八ページに藤村の『若菜集』と鴎外の『即興詩人』の図版を示し、次のように書いている。

 春陽堂出版物の奥付にみられる文言と捺印において、「著者の印章捺印……」とあって著者の押印があるものは捺印分が印税支払いの算定となり、他方「発行者の印章捺印……」とあって春陽堂の押印があるものは、著者に対して印税の支払いを必要とせず、著作権が著者から春陽堂に譲渡されていることを明らかにしている。

これは前者が『即興詩人』、後者が『若菜集』であり、浅岡は書いていないが、鴎外が印税契約だったのは藤村と異なり、春陽堂に対しての著者として優位にあったことを意味している。それはともかく、このような近代出版史における奥付の事実は浅岡が初めて明らかにしたものであろう。

次に 6 の小杉天外へと移るのだが、そこで浅岡は小杉の作家生活が明治三十年代前半から活発化し、この時期に彼の著作がすべて春陽堂から出版されている事実から始め、当初の著作権譲渡から明治三十六年の『魔風恋風』に至って、印税出版に変わったことも突き止める。そして小杉の「私としてはこれによって印税といふものをはじめて得ることが出来たものです。当時の印税は、初版三千が一割、再版から一割五分といふ相場でした」の証言を引いている。この印税出版に移行したのは『読売新聞』連載の『魔風恋風』が大人気を得ていたからであった。

実はこの春陽堂の『魔風恋風』を所持している。菊判裸本の三巻本で、前編明治三十八年十一月十三版、中編同三十九年三月十二版、後編同三十九年二月十版となっていて、当時のベストセラーだったことがわかる。この増刷表記は背にも入っている。そして印税出版であることを示す「著作者 小杉為蔵」の下に「小杉天外」の捺印がある。浅岡もこのことを述べ、「奥付の天外の捺印がその印税計算の基準となる」と書いている。これは余計な口出しかもしれないが、『魔風恋風』の捺印部分は同じ印税出版であっても、鴎外の『即興詩人』とは異なっているので、これも図版で示したほうが奥付の変化と比較の意味からして、一目瞭然であったと思われる。

さらに浅岡は『魔風恋風』の初版部数はつかめないとしながらも、日本近代文学館所蔵の小杉の二十二版と二十三版の印税領収書を掲載し、三巻で総計が四万部を超えたことは確実だと述べている。

私も思いがけず勉強になったと書いておこう。なお山本芳明『文学者はつくられる』 ひつじ書房)、ゾラの「文学における金銭」(『文学論集1865−1896』 所収、藤原書店)を併読すれば、東西共通の「権利と報酬をめぐる近代」と「著者と出版者の経済的営為」はさらに興味を増すものとなろう。

文学者はつくられる 〈文学論集1865−1896』