出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

5 支那人と吸血鬼団

  

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』

5 支那人と吸血鬼団
第五章の「宣誓」は二人がサンフランシスコにやってきて、すでに一ヵ月が過ぎたところから始まっている。大坂は賭博に負け続けて文無しになり、荒木の残された百ドルで「最後の決戦」に赴く。その道行の会話である。

 「馬鹿に非道い霧じゃないか」荒木は呟く様に言つた。
 「桑港名物の霧だよ。此の霧の中に何んな罪悪が醸されて居るか君なんかには判るまいね」
 「やあ大坂君。今日は莫迦に小説家的な口吻を洩して居るね」
 「全くさうだよ。真昼よりは夜の方が罪悪を犯すにはいいからね。(後略)」
 「飛んだ悪魔だね君は!」
 「最後まで悪い事をやれる人間は偉いと思つて居るよ俺は! 悪に徹底できる人間は偉大な人物だね」大坂は言つた。
 「さうかね。だが其の悪の種類にも依るね。何か意義のある悪なら面白いぜ屹度」

地下室の賭博場では二十人ばかりが勝負を争い、暗い別室は「生きた地獄」のようで、五、六人の白人や支那人の女が阿片中毒の身体を横たえていた。

荒木は勝ち続け、千五百ドルとなった金を最後の勝負に賭け、またしても勝ったのだが、その時鼻先に薬品を嗅がせられ、人事不省に陥った。彼が目覚めると、胡弓の旋律、銅鑼の音、女の歌声が聞こえ、美しい祭壇に寝かされている自分に気づいた。祭壇の右側には五人の支那夫人、正面には盛装し、冠をまとったトンワングを始めとする三、四十名の支那服姿の男たちがいた。その一番前に大坂の姿もあった。荒木の問いと呼びかけに対して、大坂は慇懃に立って支那流の礼をしながら言った。「一同は貴下様(あなたさま)の君臨(くんりん)をお待ちして居るのでございます」と。大坂が語るところによれば、二週間前から「秘密団体」を組織してきたが、その団長となる「理想的型(タイプ)の人間」が荒木であるとトンワングが見抜き、団長に奉戴することになったのだ。その「秘密団体」の目的はトンワングが手がける巧妙な阿片の密輸入に加えて、コカインや宝石類などのあらゆる種類の密輸入にあった。なぜトンワングでなく、自分が選ばれたのかという荒木の問いに、大坂はその答を列挙する。

 「(前略)これから日支両国人の合同で広くやらうつてんだらう。それは教養と云ひ風采と云へ世界人的な(コスモポリタニック)人間を頭(かしら)に戴く必要が生じたのさ。(中略)第一君は何処へ出しても恥かしく無いと云ふよりは何んな女でも一目見たなら惚れるか、惚れないにしても好感を抱かせる様な風貌の美丈夫だよ。(中略)美貌の所有者であると云ふ手は団長としての資格が既に半分ある事なんだよ。誰だつて美丈夫を見て悪い顔をする者は無いからね。それに今までと違つて広く上流階級へ阿片の販路を拡張するにも貴婦人対手(あいて)には是非美貌の所有者を必要とするからね。(中略)それから教養が必要さ。(中略)その次は膽力だよ。此の膽力試験を君は今日合格したのさ」

その「膽力試験」は賭博の最後の悠祐々なる勝負のことを意味していた。荒木は「人間社会に害毒を流す」ような「吸血鬼団」と称する団長になることを拒絶するが、秘密保持のために射殺されそうになる。そこで荒木は自分の希望条件が認められれば、引き受けると答える。

 「それは外でも無い事です。団員は必ずしも日支人とは限らず世界のあらゆる有色人種が加入する事が出来る事にし度いのです。(中略)そして横暴を極めて居るは白人種に対する復讐をするのですよ。ね私達は闇の中を行くとしても其処に何か自分たちの仕事に意義を認めずに行く事は全く堪え難い事ですよ。それで団員を増やして全世界的なものにするのですね。金をうんと儲ける。それとともに白蟻の様にあの暴慢な、白人社会の礎(いしずえ)を腐食さして行くんですよ。何うです私の提案は――」

荒木の雄弁はトンワングを感服させ、大坂は嬉し涙を流し、全員が最敬礼をした。

 荒木の心は全く定められた。此の厳粛な室内の空気に在つて彼は帝王の様な威厳を知らず〱の中に備へ居た。やるんだ! 倒れるまでやるんだ!有色人種の結合の為めに! 彼の口調は雄飛会時代に立帰つて居た。どんな罪悪であつても、乗りかけた舟である以上、行く処まで行かねばならなかつた。

そして荒木は吸血鬼団の「理想的団長」に就任し、全員が署名し、血判を押し、自らは拇指を噛み破り、拇指の血判となし、結党式は終つた。すると大坂が荒木に身体に刺青を要請した。それは吸血鬼団を象徴する刺青で、その図柄は「西洋美人の裸体姿に悪鬼が貪(むさぼ)り付いて血を吸ふて居る処です。美人は血を吸はれ乍ら恍惚として居ると云ふ処です」。荒木の立派な肉体は刺青師ばかりか、団員たち、とりわけ婦人たちを魅了したのだった。

さらにトンワングは荒木に自分の一人娘を支那式の正妻にしてくれと頼む。リイという娘が荒木に一目惚れしたからだ。荒木はこれからの闇の仕事とトンワングの財産を献げる事での忠誠を考え、「まるで人形の様な可愛い顔」で、「胡弓を弾いていた美しい娘」のリイとの結婚を了承する。それに続いて、結党と結婚の祝賀会が開かれ、「宣誓」の章は閉じられる。「流浪者」から「宣誓」への流れは次のように要約できるだろう。ストレンジャー→大坂との出会い→サンフランシスコと「暗黒面(ダークサイド)体験→イニシエーションとして道行と賭博→昏睡と目覚めによる再生→葛藤と決断→入団、刺青、血判→結党と結婚による新たなる物語の始まり。それは第六章の「夜」へとつながっていく。

次回へ続く。