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古本夜話62 平井功と『游牧記』

西谷操=秋朱之介がポルノグラフィから始めて、特異な装丁家として、書局梨甫や以士帖印(エステル)社などの限定版書肆を設立し、それから三笠書房の創立に参画していったことは既述した。西谷のそのような装本美学は、日夏耿之介と「南柯叢書」の企画編集者だった平井功からの大きな影響を受けているにちがいない。秋の名前も日夏から由来しているのは明らかだし、平井は西谷の同世代の人物として、一冊の詩集と四冊の限定雑誌しか残さなかった。だが平井は早逝しなければ、日夏から「今日の如何なる愛書出版家もとても比肩する事の出来ないものを確実に生み出してゐた」と感嘆せしめるほど「ビブリオロジイに関する造詣」が深かったからだ。

日夏耿之介全集

しかし日夏はその平井の造本についての具体的な言及をしておらず、また手元にある「南柯叢書」の『タル博士とフエザア教授の治療法』も、どちらかといえば普通の四六判上製本に属する印象があり、平井の特異な造本のイメージは伝わってこなかった。

その頃、人物・作品・文献探索誌『舢板』、及び明治・大正・昭和の忘れられた作家たちの作品を編んだ「EDI叢書」(イー・ディー・アイ)などの発行人である松本八郎が、『日本古書通信』に連載の「書物のたたずまい」の一編として「游牧印書局『游牧記』」(平成十八年八月号)を寄せていた。そこには昭和四年八月創刊、五三七部という限定部数の雑誌『游牧記』の書影と本文組版の特異な「たたずまい」がわかるページが掲載されていて、平井の造本へのこだわりにふれたように思った。松本は『游牧記』が存続できなかった理由として、平井功の印刷所に対する要求の厳しさと過去にない見事なほどのタイポグラフィの実践を挙げ、そのことで精興社にまで断わられてしまったと述べ、次のように書いていた。

 無理もない。本文組版をご覧いただけば、その理由は一目瞭然である。カタカナ・ひらがな・欧字のルビ・傍注、表罫・双柱罫の傍線、さらに和欧混植(なかにはユダヤ文字も入り)、表紙の文字やイニシャルには、上海から取り寄せた聚珍倣宋字体の清刷から、再度凸起しして使うことなどもしている。平井功がいかに欧州のプライヴェート・プレスからその造本の奥義を学んでみたところで、ヨーロッパの印刷にはこういう複雑で煩雑な組版はない。

そして『游牧記』に挟みこまれた「游牧印書局限定家刻本」として近刊予告されている「古逸叢書」刊行が実現していれば、「その後のわが国の書物づくりに大きな布石を遺してくれたのでは」とも松本は書いている。

ここまで書かれれば、『游牧記』はともかく、「古逸叢書」と称するもののラインナップだけでも知りたくなるではないか。そこで私も連載中の「古本屋散策」で「南柯叢書」のポオの『タル博士とフエザア教授の治療法』がフィリップ・ド・ブロカのフランス映画『まぼろしの市街戦』の原作ではないかと書き、そのついでに「古逸叢書」のことを知りたいと付したところ、二人の親切な読者が「古逸叢書」の部分のコピーを恵送してくれた。それでようやく松本の指摘する見事なほどのタイポグラフィと「古逸叢書」の内容を知った次第だ。
まぼろしの市街戦

そこで平井功は宣言している。「当印書局設立ノ趣旨ノ一半ハ、恒久ノ価値アル古今東西各方面ノ著作ヲ択ビ、尤モ完璧ナル体裁ノ下ニ上梓セントスルニアリ。以テ幼稚極リナキ本邦現代ノ造書術ヲ世界最高ノ水準ニ到ラシメントス」と。その体現が「古逸叢書」であった。そして第一篇として、フランシス・トムソン著、日夏耿之介訳書『天の猟狗』『天の猟狗の思想と技巧』の全二冊が挙げられ、それに日夏の『重修完本黄眠詩集』全五巻、同じく日夏選、解題の『明治古典彙刻』第一篇が続き、さらに準備中の続刊書目として、次の七点が並べられている。それらはリラダン『短稗鈔』(辰野隆鈴木信太郎訳)、ラ・ロシュフーコー『大公箴言録』(吉江喬松訳)、ポー『大鴉』(日夏訳)、ホフマン『歳晩祭夜譚』(石川道雄訳)、イエイツ『錬金薔薇篇』(燕石猷訳)、ダブスン『伊達乃錦襴白浪唄』、ウォルトン『釣魚大全』(いずれも平井功訳)である。

これらの書目と刊行に関して、「上梓書ノ選定ハコレヲ専ラ恩師日夏耿之介先生ニ煩シ、ソノ体裁ノ意匠ト監督ト指揮トハ不肖責任ヲ以テコレニ当ル」とあるにもかかわらず、「古逸叢書」は一冊も出版されなかった。その理由を日夏は記していないが、松本が指摘しているように、平井が意図する印刷と造本が経済的に成立しなかったと判断できよう。本のデフレ現象を体現してしまった円本時代を背景にして、ポルノグラフィならともかく、「わが徒が心を得たる逸作」を「その内容に最もふさはしき嫻雅にして趣致ふかき体裁」で、上梓することは困難であったのだ。

だがそうであったにしても、同時代における平井功のこのような試みに、西谷が関心を持たなかったはずがない。いやきっと西谷は、ともに日夏を師と仰ぐ平井をライバルとして意識し、自らの造本の世界を独自に構築しようとしたにちがいない。西谷が『游牧記』の創刊号の読者であったことは『書物游記』に記されているし、西谷のこの一冊のタイトルも『游牧記』からとられているのだろう。

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