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混住社会論8 デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)

ザ・フィフティーズ 上 ザ・フィフティーズ 下 ザ・フィフティーズ (新潮文庫版)




『〈郊外〉の誕生と死』において、言及できなかった著作が、大江健三郎や北井一夫の写真集だったことを、その理由なども含め、前回と前々回で既述しておいた。

〈郊外〉の誕生と死
そのような参考資料的著作がもう一冊あって、それはD・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』(金子宣子訳)である。同書はタイトル通り、アメリカの一九五〇年代を描いたノンフィクションの大作で、原著は九三年に刊行されている。前々回、アメリカの五〇年代と日本の八〇年代の産業構造がまったく重なり合う事実にふれておいたが、そのことから鑑みても、このノンフィクションは参照すべき著作に他ならなかった。そればかりか、当時私が郊外論を書いていたことを仄聞してなのか、新潮社の大島道夫が刊行されたばかりの『ザ・フィフティーズ』を恵贈してくれてもいた。

ところがそれは九七年七月のことで、拙著はすでに五月の時点に脱稿し、ゲラが出ていた頃だった。そのために残念ながら、拙著の第3章を「アメリカ的風景の出現」と題したにもかかわらず、ハルバースタムの「アメリカの世紀の終りに」というサブタイトルが付された『幻想の超大国』(狩野秀之訳、講談社)は参照していたが、『ザ・フィフティーズ』には言及できなかった。しかし拙著を上梓した後に同書を読み、あらためてアメリカの五〇年代と日本の八〇年代の郊外消費社会の風景の酷似を、さらに生々しく実感するしかなかったのである。

それにハルバースタムは「著者ノート」で、「私は五〇年代の落とし子だ」と書き、「多くの人々が想像するより興味深く、また複雑であった五〇年代」と記している。また五〇年代を描くことで、それに続く「あの激動の六〇年代」への道筋もたどれるはずだとも述べている。おそらくそのような視点は、ベトナム戦争をアメリカ政府の内側から描いた『ベスト&ブライテスト』(浅野輔訳、サイマル出版会)へとつながっていくのは自明であるが、ここではそのことにふみこまない。

ベスト&ブライテスト
ハルバースタムの「著者ノート」の言葉にならっていえば、彼がその時代にアメリカの高校、大学生だったことに比べて、私はまさに五〇年代の生まれであり、その後の高度成長期に成長し、同様に「多く人々が想像するより興味深く、また複雑であった」八〇年代を通過してきている。それゆえに『ザ・フィフティーズ』を論じてこなかったことも気になっていたし、続けてアメリカの五〇年代の小説を取り上げるつもりでいるので、この機会に書いておきたいと思う。

といって邦訳二段組み、上下巻八百余ページにわたる浩瀚な大著のすべてに言及はできないし、そのアウトラインをたどるにも短文では要を尽せない。そこで本連載のストーリーと直接的に連鎖する第1部の〈9〉から〈12〉の章にスポットを当ててみたい。それらの章題は「家を大量生産した男」「ディスカウントショップ」「マクドナルド兄弟」「ホリデイイン」である。

〈9〉の「家を大量生産した男」とはビル・レヴィットのことで、彼はフォードの車の大量生産方式を住宅建設に応用し、郊外住宅地レヴィットタウンを開発した男を指している。日本の場合、まず日本住宅公団による住宅地の開発と団地の建設を通じて郊外が出現していったのだが、アメリカは戦後版アメリカンドリームとしての、さらなる車社会化とマイホーム幻想とレヴィットタウンが三位一体となっていた。さらに日本との関連でいえば、ビル・レヴィットとレヴットタウンにあたるものは、大工でもゼネコンでもない、ハウスメーカーとその開発住宅地ということになろう。
その章は次のように書き出されている。

 アメリカ車は果てしなく大型化し、華麗なスタイルや贅沢な装備を追い求めた。だが、これも新たな豊饒の時代を示すほんの一端にすぎなかった。第二次大戦後、アメリカ人はすぐにも夢のような生活が始まると思い描いていた。その夢の中心は、自分の家をもつことだった。事実、ヘンリー・フォードの車や急速に改善された道路網とハイウェイ網のおかげで、都市周辺の広大な農地が開発され、この夢は現実となりはじめた―「郊外」が出現したからだった。

五〇年代に始まった、アメリカ各地の郊外における広大なレヴィットタウンの開発と建設によって、郊外人口は六千万人増加し、七〇年代には都市人口を上回るようになり、アメリカの成長率の73%が郊外に起因するという現象を生じさせていた。
レヴィットタウンに続く、前述したそれぞれの章において、ハルバースタムは五〇年代のアメリカ社会の郊外の風景をカレードスコープのように示し、ディスカウントショップを始めとする様々なロードサイドビジネス、マクドナルドなどのようなファーストフード、ホリデイインといったモーテル、ファミリーレストラン、郊外ショッピングセンターの誕生にも万遍なく筆を及ぼしている。

これらはすべて戦後における郊外人口のドラスティックな増加を背景とするもので、それはディズニーランドも例外ではなく、その開園もまたこの時代だったのである。そしてアメリカ的郊外生活様式は、〈13〉の「テレビの台頭」に示されているように、これもまた五〇年代の郊外で爆発的に普及したテレビを通じてプロパガンダされ、テレビドラマとして世界へと送り出されていった。おそらくその最大の供給先が日本だったことはいうまでもないだろう。

そして日本は六〇年代の高度成長期を迎え、ダイエーの中内功に代表されるスーパー経営者だけでなく、様々なロードサイドビジネス創業者たちが次々とアメリカに向かっていた。それは来るべき消費社会のビジネスモデルを得ようとしてであり、何よりもアメリカこそは突出した消費社会化を実現させていた。それはヨーロッパよりもはるかに先駆ける一九三九年のことで、イギリスやフランスにしても、消費社会化は日本とさほどタイムラグのない七〇年代前後だったし、西ドイツやイタリアに至っては八〇年代を越えてからだった。

その突出した消費社会であるアメリカが戦後の五〇年代において、自動車と郊外の膨張によって、さらに消費社会化が加速されていったのはすでに『ザ・フィフティーズ』に見てきたとおりだ。日本のスーパー経営者やロードサイドビジネス創業者たちは、まずアメリカにおいて車社会と郊外を見出し、それらをバックヤードとするロードサイドビジネスを発見する。そして日本においても、消費社会、車社会、郊外社会に至れば、ロードサイドビジネスが成立するという判断を下したと考えていいし、それを告げるように、七〇年代前半にほぼすべてがその郊外一号店を出店している。
ファミレス、紳士服、靴、書店、ホームセンター、カー用品の各店に加え、最初は都心から始まり、後にロードサイドビジネス化していくコンビニやファーストフードにしても、同じく七〇年代前半に集中している。これらはすべて八〇年代になって、店舗数と売上高を急成長させ、全国的な郊外消費社会の均一的風景を出現させる装置と化していったのである。それらのロードサイドビジネスの個別の出店、売上高、店舗数、成長の詳細に関しては『〈郊外〉の誕生と死』の第2章「ロードサイドビジネスのある風景」を参照されたい。

このようにアメリカの五〇年代と日本の八〇年代はオーバーラップし、同じ風景を出現させ、すでに三十年以上の歴史を有するに至ったのだ。それが何をもたらしたのか、本連載でさらに深く追求されなければならないだろう。

次回へ続く。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1