*今週から、[古本夜話]を月曜日・水曜日に、[戦後社会状況論]を金曜日にアップします。ご了承ください。
嶽本野ばらの『下妻物語』はタイトルに示されているように、「行けども行けども、田んぼ」の茨城県の「卒倒してしまいたくなる程の田舎町」下妻を舞台としている。そこでの「ロリータ」=桃子と「ヤンキー」=イチコの出会いは、意図的な物語の異化効果をもたらすものとして仕組まれていて、それはロートレアモンの『マルドロールの歌』(栗田勇訳、現代思潮社)の中のよく知られた「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」という一節を想起させる。また後半になって、二人の組み合わせは「殆どシュルレアリスムなの」だとの言葉も見つかる。すなわちこれはシュルレアリスム的に「ロリータ」と「ヤンキー」が混住する物語なのだ。
このように始めたからといって、『下妻物語』自体の冒頭の一文が「真のロリータはロココな精神を宿し、ロココな生活をしなければなりません」とあり、それに続いてロココの定義もなされているわけだけら、あながち不都合でもないだろう。まずは提出されている「ロココ」、それに「ロリータ」の定義を抽出しておく。
他人の評価や労力を査定の対象とはせず、自分自身の感覚で、これは嫌い、これは好きと選別していく究極の個人主義こそが、ロココの根底を支えているのです。ロココはどんな思想よりもパンクでアナーキーなのです。私はエレガントなのに悪趣味で、ゴージャスなのにパンクでアナーキーであるロココという主義にだけ、生きる意味を見出すことができるのです。
ロリータ―それは日本独自のストリート・ファッションとして定義されます。が、私にとってロリータは、ファッションでありながらもそれに留まることなく、揺るぎなき自分自身の絶対的価値観として存在するのです。フリル全開のブラウスを着て、コルセットでウエストを締め付け、パニエをどっさり仕込んだ上にスカートを穿き、頭には思い切り浮世離れしたヘッドドレスを装着することが、ロココに身を捧げた自らの宣誓なのです。
これらが『下妻物語』における「ロココ」と「ロリータ」の定義であり、両者を主義兼ファッションとして生きるのが桃子ということになる。それは他人から悪趣味だといわれようとも、自分の信念と審美眼に基づき、自由に生きるという桃子の決意の表明である。彼女は兵庫県の「ジャンクなシティ」にして、「ジャージの国」尼崎出身で、妻に逃げられたバッタ屋の「駄目親父」とともに、その母親、つまり祖母の住む下妻へと引越してきた。田舎ゆえに尼崎の小さなマンションと異なり、古い日本家屋は広く、部屋も多くあり、桃子は下妻駅近くの、歩いて三十分かかる高校へ転入することになったのである。そして彼女は「ロリータ」ゆえに、自転車はふさわしくないとして乗らず、「悲しい田舎、否、田んぼに両サイドを挟まれた県道」を歩いていく。そこにはコンテナ型のカラオケボックスと公民館のようなビリヤード場があるだけで、周辺にコンビニはあっても、まだロードサイドビジネス地帯とはなっていない。そうであっても、彼女がエイリアンのように突如として郊外に出現した「ロリータ」であることに変わりはない。
さてここで少し注釈を加えておくべきだろう。一般的な美術史によれば、「ロココ」とは十八世紀初頭からフランス革命頃までのフランスを中心とするヨーロッパ美術の総称で、それ以前のヴェルサイユに代表される絢爛豪華な国家芸術とは異なり、優美、洗練、装飾性をきわめた王朝最後の美術様式とされる。そのロココ時代は王権と教会の力が後退し、絶対王政の崩壊とブルジョワ階級の台頭が始まり、個人の趣味と感性をベースとする貴族とブルジョワのサロン文化の隆盛とパラレルであった。
また「ロリータ」とは本連載10のナボコフの『ロリータ』に端を発するもので、そこからふたつの和製英語が派生している。それらはロリータコンプレックスとロリータファッションで、前者は少女にしか性欲を感じないアブノーマル性愛、後者は少女趣味的な装いを意味し、『下妻物語』における「ロリータ」とはもちろん後者のことをさしている。
したがって、「ロココ」にしても「ロリータファッション」にしても、それらは一九八〇年代以後の消費社会と郊外の出現によって造型された和製仏語、和製英語と見なすべきであろう。消費社会と郊外はかつての「世間」に象徴される共通モラルを解体してしまったゆえに、自分自身の感覚に基づく「究極の個人主義」、及びそれに見合った自由なファッションによって生きることを可能にさせたのである。
実際にそれが『下妻物語』を決定づける桃子の生き方であるといっていい。だが郊外消費社会が成熟していない下妻には桃子以外に「ロリータ」はおらず、「変な格好」だと迫害されるし、それらの洋服を入手するために、休日には必ず東京へと「お出掛け」しなければならならない。常総線から常磐線に乗り継ぎ、上野から山手線で渋谷に出て、東横線に乗り変えるという代官山への長い道のりをたどるしかなかった。そこにはロリータ系の洋服を売るブランドの本店や直営店があったからだ。ブランド名や店名がカタカナ、アルファベット表記されているが、これらについての知識がまったくないので、記載と言及は省略する。
それらの洋服を買う金を捻出するために、桃子は個人情報誌を通じての「バッタもの」販売を始める。すると改造を施した原付バイクでやってきたのは「ヤンキー」のイチコだった。そのスタイルは次のように描写されている。
肩までのストレートの金髪、ブルーのアイシャドー、真っ赤なルージュのその人は、紺の短ランのブレザーに、やたらに長い、そしてプリーツが異常に沢山入ったスカートを引き摺っていました。足にはミュール(中略)うわー、スケバンだ。それもスゴいオールドタイプの……。
「ヤンキー」に関しての詳細は五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)や難波功士『ヤンキー進化論』(光文社新書)を参照してほしいが、ここでは簡略にアメリカ人の俗称に起源を発し、不良少年、少女とそのファッションスタイルなどをさすと記しておこう。
そしてこの「ヤンキー」と「ロリータ」=桃子との間には特別な意味があることも明らかにされる。それはこれも一九八〇年代に「ヤンキー」のバイブルとして読み継がれた牧野和子の『ハイティーン・ブギ』で、主人公の暴走族のリーダーが十六歳の少女と出会い、二人は学校を中退し、子供が生まれ、結婚するという早期恋愛、早期出産、早期結婚、つまり「ヤンキー」の「基本と憧れ」を描いたものである。主人公の男女の名前は翔と桃子であり、この二つの名前はヤンキーたちにとって今でも一種のアイコンとして機能しているとされる。またイチコの属する族のレディースのチーム名も『ハイティーン・ブギ』からとられたポニーテールなのだ。
とすれば、『下妻物語』は『ハイティーン・ブギ』のパロディといった一面も備えていることになる。しかもそれは主人公の男を不在とするもので、最初からこれが「ヤンキー」を止揚する「ロリータ」の物語として仕組まれているのではないだろうか。
かくして桃子はイチコにいう。「人は見かけだもん。(中略)ヤンキーとして見て欲しいからヤンキーな格好をしているんだろうし、ロリータの格好をしている私は、それゆえにロリータなんです」。両者が交換可能であることを暗示させているかのようだ。問題なのは「見かけ」であり、表層をめぐるものなのだ。それは下妻とイチコにあってはさらにブランドもまたオリジナルとコピー=「バッタもの」の差異は問われないし、それがこの物語をスラップスティックコメディたらしめている。それゆえに『下妻物語』とはシミュラークル、パスティーシュ、クリシェの王国でもある。
それは二人の会話に象徴的に表われる。そのひとつを挙げてみよう。イチコの最も好むブランドGALFYで、それはところどころに豹柄が入り、胸と背中に骨を口にくわえた犬の顔が大きく描かれているジャージのようなトップスである。
「そのGALFYって、何処に売っているの?」
「うーん、露店とか、ヤン服が揃っている洋品店とか」
「専門の直営店とかはないの?」
「どうなのかな? よく解らない。名古屋のメーカーらしいんだけどな」
「じゃ、何処でイチコはGALFYを買うの?」
「ジャスコだよ」
イチコがドスをきかせてそうコメントしたので、私は思わず爆笑してしまいました。
「何で笑うんだよ」
「だって、ジャスコってスーパーじゃん」
「ばかだなー、おまえ。下妻のジャスコはスゴいんだぞ。GALFYも売っているし、ヤンキーOB御用達のINFINITYもSanta feも取り扱っているんだぞ。下妻のジャスコはあたいらにとって、最もシブイ場所なんだよ。常にディスカウントしてくれているしな。ジャスコを嗤う者はジャスコに泣くぞ。何でも揃うし、食料品街は十一時まで営業しているんだぞ。お前もこれから下妻で生きていくにはジャスコのお世話になるに決まっている」
前述したように、こうした会話が『下妻物語』のスラップスティックのコア、『ハイティーン・ブギ』などのパロディ、あるいはメタフィクション的ファクターだと承知していても、今世紀になってからの郊外の開発の事実を知るものにとって、この会話の部分はとても生々しいのだ。
一九九〇年の日米構造協議をきっかけにして、大規模小売店舗法(大店法)が規制緩和され、二〇〇〇年に廃止となり、新たに大規模小売店舗立地法(大店立地法)が成立する。それを背景にして、ジャスコはイオンと名称を変え、郊外ショッピングセンターの開発に突き進んでいく。それは今世紀に入って全国的に展開され、そのような現象をさして、「イオン化する日本」とも称されることになった。そうした予兆をこの会話の中に読みとることができるように思われるのだ。中島哲也による映画『下妻物語』もそのことに気づいているように思われる。
それだけでなく、この会話の部分あたりから、物語は急速に動き出し、もちろん様々なシミュラークル、パスティーシュであるにしても、新たに展開されていくことになる。しかしそこまで言及してしまうと種明かしのようになってしまうので、ここで止めることにしよう。
さてこれは余談になるのだが、『美術手帖』(二〇〇九年九月号)が「現代の武闘派絵師」天明屋尚を案内人とする「特集アウトローの美学」を汲み、「ヤンキー」文化に新たな照明を当てている。そこに収録された「アウトロー・カルチャー・ガイド」には映画の『下妻物語』も見え、小説においても「ロリータ」が「男伊達」ならぬ、パロディとしての「女伊達」の世界を描いていたのではないかという示唆を与えてくれる。そのように考えて見ると、「ロリータ」=桃子も、「ヤンキー」=イチコも日本のアウトローたる婆娑羅、傾寄者(かぶきもの)の系譜上に出現したキャラクターということになるのだ。