出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論56 嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)

*今週から、[古本夜話]を月曜日・水曜日に、[戦後社会状況論]を金曜日にアップします。ご了承ください。


嶽本野ばら『下妻物語』はタイトルに示されているように、「行けども行けども、田んぼ」の茨城県の「卒倒してしまいたくなる程の田舎町」下妻を舞台としている。そこでの「ロリータ」=桃子と「ヤンキー」=イチコの出会いは、意図的な物語の異化効果をもたらすものとして仕組まれていて、それはロートレアモン『マルドロールの歌』栗田勇訳、現代思潮社)の中のよく知られた「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出逢いのように美しい!」という一節を想起させる。また後半になって、二人の組み合わせは「殆どシュルレアリスムなの」だとの言葉も見つかる。すなわちこれはシュルレアリスム的に「ロリータ」と「ヤンキー」が混住する物語なのだ。

マルドロールの歌

このように始めたからといって、『下妻物語』自体の冒頭の一文が「真のロリータはロココな精神を宿し、ロココな生活をしなければなりません」とあり、それに続いてロココの定義もなされているわけだけら、あながち不都合でもないだろう。まずは提出されている「ロココ」、それに「ロリータ」の定義を抽出しておく。

 他人の評価や労力を査定の対象とはせず、自分自身の感覚で、これは嫌い、これは好きと選別していく究極の個人主義こそが、ロココの根底を支えているのです。ロココはどんな思想よりもパンクでアナーキーなのです。私はエレガントなのに悪趣味で、ゴージャスなのにパンクでアナーキーであるロココという主義にだけ、生きる意味を見出すことができるのです。

 ロリータ―それは日本独自のストリート・ファッションとして定義されます。が、私にとってロリータは、ファッションでありながらもそれに留まることなく、揺るぎなき自分自身の絶対的価値観として存在するのです。フリル全開のブラウスを着て、コルセットでウエストを締め付け、パニエをどっさり仕込んだ上にスカートを穿き、頭には思い切り浮世離れしたヘッドドレスを装着することが、ロココに身を捧げた自らの宣誓なのです。

これらが『下妻物語』における「ロココ」と「ロリータ」の定義であり、両者を主義兼ファッションとして生きるのが桃子ということになる。それは他人から悪趣味だといわれようとも、自分の信念と審美眼に基づき、自由に生きるという桃子の決意の表明である。彼女は兵庫県の「ジャンクなシティ」にして、「ジャージの国」尼崎出身で、妻に逃げられたバッタ屋の「駄目親父」とともに、その母親、つまり祖母の住む下妻へと引越してきた。田舎ゆえに尼崎の小さなマンションと異なり、古い日本家屋は広く、部屋も多くあり、桃子は下妻駅近くの、歩いて三十分かかる高校へ転入することになったのである。そして彼女は「ロリータ」ゆえに、自転車はふさわしくないとして乗らず、「悲しい田舎、否、田んぼに両サイドを挟まれた県道」を歩いていく。そこにはコンテナ型のカラオケボックスと公民館のようなビリヤード場があるだけで、周辺にコンビニはあっても、まだロードサイドビジネス地帯とはなっていない。そうであっても、彼女がエイリアンのように突如として郊外に出現した「ロリータ」であることに変わりはない。

さてここで少し注釈を加えておくべきだろう。一般的な美術史によれば、「ロココ」とは十八世紀初頭からフランス革命頃までのフランスを中心とするヨーロッパ美術の総称で、それ以前のヴェルサイユに代表される絢爛豪華な国家芸術とは異なり、優美、洗練、装飾性をきわめた王朝最後の美術様式とされる。そのロココ時代は王権と教会の力が後退し、絶対王政の崩壊とブルジョワ階級の台頭が始まり、個人の趣味と感性をベースとする貴族とブルジョワのサロン文化の隆盛とパラレルであった。

また「ロリータ」とは本連載10のナボコフの『ロリータ』に端を発するもので、そこからふたつの和製英語が派生している。それらはロリータコンプレックスとロリータファッションで、前者は少女にしか性欲を感じないアブノーマル性愛、後者は少女趣味的な装いを意味し、『下妻物語』における「ロリータ」とはもちろん後者のことをさしている。

ロリータ

したがって、「ロココ」にしても「ロリータファッション」にしても、それらは一九八〇年代以後の消費社会と郊外の出現によって造型された和製仏語、和製英語と見なすべきであろう。消費社会と郊外はかつての「世間」に象徴される共通モラルを解体してしまったゆえに、自分自身の感覚に基づく「究極の個人主義」、及びそれに見合った自由なファッションによって生きることを可能にさせたのである。

下妻物語 (小学館文庫)

実際にそれが『下妻物語』を決定づける桃子の生き方であるといっていい。だが郊外消費社会が成熟していない下妻には桃子以外に「ロリータ」はおらず、「変な格好」だと迫害されるし、それらの洋服を入手するために、休日には必ず東京へと「お出掛け」しなければならならない。常総線から常磐線に乗り継ぎ、上野から山手線で渋谷に出て、東横線に乗り変えるという代官山への長い道のりをたどるしかなかった。そこにはロリータ系の洋服を売るブランドの本店や直営店があったからだ。ブランド名や店名がカタカナ、アルファベット表記されているが、これらについての知識がまったくないので、記載と言及は省略する。

それらの洋服を買う金を捻出するために、桃子は個人情報誌を通じての「バッタもの」販売を始める。すると改造を施した原付バイクでやってきたのは「ヤンキー」のイチコだった。そのスタイルは次のように描写されている。

 肩までのストレートの金髪、ブルーのアイシャドー、真っ赤なルージュのその人は、紺の短ランのブレザーに、やたらに長い、そしてプリーツが異常に沢山入ったスカートを引き摺っていました。足にはミュール(中略)うわー、スケバンだ。それもスゴいオールドタイプの……。

「ヤンキー」に関しての詳細は五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社)や難波功士『ヤンキー進化論』(光文社新書)を参照してほしいが、ここでは簡略にアメリカ人の俗称に起源を発し、不良少年、少女とそのファッションスタイルなどをさすと記しておこう。

ヤンキー文化論序説

そしてこの「ヤンキー」と「ロリータ」=桃子との間には特別な意味があることも明らかにされる。それはこれも一九八〇年代に「ヤンキー」のバイブルとして読み継がれた牧野和子の『ハイティーン・ブギ』で、主人公の暴走族のリーダーが十六歳の少女と出会い、二人は学校を中退し、子供が生まれ、結婚するという早期恋愛、早期出産、早期結婚、つまり「ヤンキー」の「基本と憧れ」を描いたものである。主人公の男女の名前は翔と桃子であり、この二つの名前はヤンキーたちにとって今でも一種のアイコンとして機能しているとされる。またイチコの属する族のレディースのチーム名も『ハイティーン・ブギ』からとられたポニーテールなのだ。

ハイティーン・ブギ

とすれば、『下妻物語』『ハイティーン・ブギ』のパロディといった一面も備えていることになる。しかもそれは主人公の男を不在とするもので、最初からこれが「ヤンキー」を止揚する「ロリータ」の物語として仕組まれているのではないだろうか。

かくして桃子はイチコにいう。「人は見かけだもん。(中略)ヤンキーとして見て欲しいからヤンキーな格好をしているんだろうし、ロリータの格好をしている私は、それゆえにロリータなんです」。両者が交換可能であることを暗示させているかのようだ。問題なのは「見かけ」であり、表層をめぐるものなのだ。それは下妻とイチコにあってはさらにブランドもまたオリジナルとコピー=「バッタもの」の差異は問われないし、それがこの物語をスラップスティックコメディたらしめている。それゆえに『下妻物語』とはシミュラークル、パスティーシュ、クリシェの王国でもある。

それは二人の会話に象徴的に表われる。そのひとつを挙げてみよう。イチコの最も好むブランドGALFYで、それはところどころに豹柄が入り、胸と背中に骨を口にくわえた犬の顔が大きく描かれているジャージのようなトップスである。

 「そのGALFYって、何処に売っているの?」
 「うーん、露店とか、ヤン服が揃っている洋品店とか」
 「専門の直営店とかはないの?」
 「どうなのかな? よく解らない。名古屋のメーカーらしいんだけどな」
 「じゃ、何処でイチコはGALFYを買うの?」
 「ジャスコだよ」
 イチコがドスをきかせてそうコメントしたので、私は思わず爆笑してしまいました。
 「何で笑うんだよ」
 「だって、ジャスコってスーパーじゃん」
 「ばかだなー、おまえ。下妻のジャスコはスゴいんだぞ。GALFYも売っているし、ヤンキーOB御用達のINFINITYもSanta feも取り扱っているんだぞ。下妻のジャスコはあたいらにとって、最もシブイ場所なんだよ。常にディスカウントしてくれているしな。ジャスコを嗤う者はジャスコに泣くぞ。何でも揃うし、食料品街は十一時まで営業しているんだぞ。お前もこれから下妻で生きていくにはジャスコのお世話になるに決まっている」

前述したように、こうした会話が『下妻物語』のスラップスティックのコア、『ハイティーン・ブギ』などのパロディ、あるいはメタフィクション的ファクターだと承知していても、今世紀になってからの郊外の開発の事実を知るものにとって、この会話の部分はとても生々しいのだ。

一九九〇年の日米構造協議をきっかけにして、大規模小売店舗法(大店法)が規制緩和され、二〇〇〇年に廃止となり、新たに大規模小売店舗立地法(大店立地法)が成立する。それを背景にして、ジャスコはイオンと名称を変え、郊外ショッピングセンターの開発に突き進んでいく。それは今世紀に入って全国的に展開され、そのような現象をさして、「イオン化する日本」とも称されることになった。そうした予兆をこの会話の中に読みとることができるように思われるのだ。中島哲也による映画『下妻物語』もそのことに気づいているように思われる。

下妻物語

それだけでなく、この会話の部分あたりから、物語は急速に動き出し、もちろん様々なシミュラークル、パスティーシュであるにしても、新たに展開されていくことになる。しかしそこまで言及してしまうと種明かしのようになってしまうので、ここで止めることにしよう。

さてこれは余談になるのだが、『美術手帖』(二〇〇九年九月号)が「現代の武闘派絵師」天明屋尚を案内人とする「特集アウトローの美学」を汲み、「ヤンキー」文化に新たな照明を当てている。そこに収録された「アウトロー・カルチャー・ガイド」には映画の『下妻物語』も見え、小説においても「ロリータ」が「男伊達」ならぬ、パロディとしての「女伊達」の世界を描いていたのではないかという示唆を与えてくれる。そのように考えて見ると、「ロリータ」=桃子も、「ヤンキー」=イチコも日本のアウトローたる婆娑羅、傾寄者(かぶきもの)の系譜上に出現したキャラクターということになるのだ。

美術手帖

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1