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古本夜話684 山本熊太郎『新日本地誌』

前回の古今書院の創業者橋本福松の立項のところには見えていなかったけれど、山本熊太郎の『新日本地誌』がある。これは全六巻で、明細を見れば、関東・奥羽篇、北海道・樺太篇、中部地方篇、近畿・中国篇、四国・九州篇、外地篇という構成により、昭和十二年から十七年にかけて刊行されている。
(関東・奥羽篇)

といっても、全巻を入手しているのではなく、「四国・九州篇」と「外地篇」に当たる第五、六巻だけだが、菊判上製函入であり、著者にしても出版社にしても、大きな仕事として位置づけていいように思われる。このタイトルに「新」が付されているのは、本連載520『大日本地誌大系』のコンセプトを継承し、昭和十年代における新しいバージョンを意図する企てだったのではないだろうか。ただそうした事情も触れられているはずの第一巻所収の「序文」に目を通していないので、あくまで推測にとどまってしまうのだが。
大日本地誌大系 (『大日本地誌大系』第24巻「御府内備考」、1959年復刻)

しかしずっと気にかけているにもかかわらず、著者の山本熊太郎と『新日本地誌』に関する立項、もしくはまとまった言及に出会わない。それは『地理学辞典』(二宮書店)といった専門書においても同様なのだ。それもあって、ここでは山本の「跋文」も収録されている最終巻『新日本地誌(外地篇)』を取り上げ、そのアウトラインを浮かべ上がらせてみたい。山本は昭和十六年明治節の日付で、巻末の「跋文」に次のように記している。

『〈郊外〉の誕生と死
 本書を起稿したのは昭和十一年秋で、今夏書き下ろす迄丁度五ケ年の歳月を要した。頁にして三〇〇〇頁、図版一五〇〇個、今顧みて感慨無量のものがある。此の間世の中は急轉直下の一大変遷を遂げてゐる。支那事変突発と欧州の動乱、更に一触々発の太平洋の危機等がそれである。此の間終始一貫本著の生みの親である院主橋本福松氏の激励によつて辛くも今日最終刊を世に問ふことが出来たのは何といふ仕合せであつたらう。紙の供給難、印刷機関の輻輳、編輯社員の手不足、出版統制への折衝等、恐らく著者の想像する以上に院主の苦心は並大抵でなかつたと思ふ。著者は又此の最終刊の筆を運びつゝある稹忙の間に、唯一人の母を失つてしまつた。(後略)

これを同時代史に置き換えてみれば、全六巻の刊行は、支那事変、第二次世界大戦、太平洋戦争という「急轉直下の一大変遷」とパラレルで、第六巻に至っては「跋文」を記したのが十一月三日であり、その一ヵ月後の十二月八日に日本軍の真珠湾攻撃が起きている。発行日は十七年一月十日だから、それに合わせるように印刷は進行していたと思われる。そのような状況の中での出版は、山本が述べているように、古今書院の橋本にとっても多大な労力を必要としたであろうし、著者にしても母を失うという事態に遭遇してしまったのである。だがそのようにしてか、すべてを見ていないけれど、「三〇〇〇頁、図版一五〇〇個」の完結はならなかったし、山本も「今かうして世の中の凡ての御恩によつて完結した」と記してもいる。

しかしこうしたドラスチックな歴史的状況の中での出版だったことから、戦後になって、山本や『新日本地誌』が立項もされない要因を生じさせたとも考えられる。それは「時勢が変わつて来た今日、思ふ事をそのまゝに書き得た日本地誌の最終の記念塔となつた事」とか、統計なども「昭和十年の事変前のものを用ひたから、防諜又は戦時総動員法に問はれる事も無い筈」との言にもうかがわれる気がする。

それを具体的に第六巻に見てみると、そこでの外地とは台湾、長施、関東州、南洋群島からなっているが、実際には台湾と朝鮮で大半が占められ、大連港を有する租借地関東州、南洋群島に関しては双方でわずか三〇ページほどで、まさに付録扱いといった印象を受ける。とりわけ南洋群島はわずか十ページで、サイパン、ヤップ、パラオ、トラック、ポナペ、ヤルートの六島が挙げられているだけである。それは日本が昭和十年に国際連盟を脱退したけれど、南洋群島の委任統治は国際連盟からではなく、日本を含む「主たる同盟及連合国から賦与された権利」に基づくもので、「故に帝国が連盟国ではなくなった事は委任統治国たるに何等支障を示さない」という見解に寄っている。このことは山本が日本の南洋群島委任統治を第一次大戦の平和条約から見て、現在でも正当だと判断し、これらの南洋群島を帝国の「外地」に含んでいることになる。

しかし本連載でもふれてきたように、昭和十年代後半は「南へ、南へ」という南進論の時代でもあるが、山本の国際法と地理学者の視座から見られた南洋群島は、「南へ、南へ」という膨張の気配をまったく感じさせていない。それは山本の地理学者としての見解だとしても、その時代の「外地」の地史としては物足りない印象を与えたとも考えられる。

だがその一方で、台湾や朝鮮に関する詳細な地誌、戦後になって植民地から解放された台湾や朝鮮にとって、戦前の時代と重なっていたために、認め難いものを多く含んでいたのかもしれない。これらの経緯や事情については何もつかんでいないが、大いにありえたことではないだろうか。それゆえに、山本熊太郎にしても『新日本地誌』にしても、立項や言及が残されてこなかったように思われる。


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