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古本夜話902 「東洋民族史叢書」と岩永博『インド民族史』

 前回の『印度支那』に続き、もうひとつ、同時代に出されたアジアを対象としたシリーズがあるので、これも書いておきたい。それは本連載831などの今日の問題社から刊行の「東洋民族史叢書」で、次のような構成となっている。
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1 内藤智秀 『西アジア民族史』
2 大谷敏治 『インドネシヤ民族史』
3 岩永博 『インド民族史』
4大岩誠 『インドシナ半島民族史』
5 竹尾弌 『 アジヤ周辺民族史』
6 江上波夫 『支那民族史』上巻
7 青山定雄、中島敏 『支那民族史』中巻
8 百瀬弘 『支那民族史』下巻
9 鈴木俊 『東洋史上の日本民族』
10 小林元 『世界史上の東洋民族』

f:id:OdaMitsuo:20190320141044j:plain:h115(『 アジヤ周辺民族史』)  f:id:OdaMitsuo:20190320142102j:plain:h118(『東洋史上の日本民族』)

 手元にあるのは3の岩永博 『インド民族史』で、これはその奥付表に記されたリストを転載している。同書の刊行は昭和十九年三月、既刊はその他に1、2、5、9の五冊で、その後の続刊は不明だが、時局下から考えても、この「東洋民族史叢書」は完結に至らなかったと見なすべきだろう。

 それはともかく、奥付に示された岩永の略歴は、昭和十四年東京帝大文学部西洋史学科卒業、十八年参謀本部嘱託、十八年参謀本部付陸軍通訳官とある。『日本近現代史辞典』によれば、参謀本部は明治十一年に設置された陸軍の軍令統轄既刊とされるが、支那事変以後、南進北進をめぐって、陸海軍の対立が続き、両者を折衷する「国策の基準」の成立を観た。しかしそれと大本営設置に伴い、動員、戦争指導、国防国策、宣伝謀略などの様々な課などの移動、廃合が続いたとされる。

 そのような参謀本部における岩永のポジションと研究者の視座が絡み合い、『インド民族史』も書かれている。彼はその「序」において、まずインドの一八〇万方哩に及ぶ巨大な国土面積と三億九千万の人口の膨大さという特色を挙げている。そして様々な古来の文化の盛衰に関して、「インドの如く太古以来三千年世界的な高度文化に不断の国民的生命を持続せしめたものは極めて稀で」、「そこにインド民族史に与へられた盡くに関心と滋味が溢れる」と述べている。

 それからインドの始源社会における先住民とアーリア人種の侵入による文化の形成、古代社会の政治と文化の発展、その変質と崩壊、ラーヂュプット諸国と新社会の展開、回教政権の成立と派って、ムガル王朝下の政治と社会がたどられ、次に近世初期西欧諸国のインド進出へと至る。そこには「英領インド征服経過概図」の一ページ掲載があり、イギリスの東インド会社によるインド征服道程と統治政策の発展、イギリスの直接統治と社会経済変動の傾向が示される。それに対する反英運動の勃発と不服従運動の展開がたどられ、二十世紀の連邦憲法と第二次大戦下のインドまでが語られていく。そのようなインドの歴史を俯瞰しつつ、岩本は書いている。

 確かに古きインドは西欧近代文明に一度は叩頭した。併し、インドはかかる外的圧力と刺激に直面し、常に自ら覚醒し、本然の潜在力を振興して、却て征服者とその文化を吸収克服征服してゐるのが歴史の偽はらざる教訓となつてゐる。イギリスの侵入前、インドが統治としては異常に強靭な政治力をもち、経済的、文化的にアジアを睥睨してゐた事実によつて、その本質的優秀さを顧みる時、何人も窮局に於けるインドの飛躍と復興を疑へない。

 ここには大東亜共栄圏構想と南進論の中において、自らがいうところの「インド史研究への情熱」を傾ける岩永のインドに向ける眼差し、そこから浮かび上がるインドの現代の実像がクローズアップされてくるように思われる。それはこの一冊しか見ていないけれど、「東洋民族史叢書」に通底しているキイトーンではないだろうか。

 岩永は10の『世界仕様の東洋民族』の著者の小林元を恩師として、またそれに続いて、「あらゆる便宜と熱意を傾けられて中途にして征途に上られた紀元社々員田村政吉氏及びその後任者江川信也氏」への謝辞をしたためている。この記述からすると、「東洋民族史叢書」自体が紀元社の企画だったと推察される。ところが戦時下における企業整備によって、紀元社は今日の問題社へと統合され、それゆえに「東洋民族史叢書」は今日の問題社から刊行されたのではないだろうか。

 しかし福島鋳郎編著『[新版]戦後雑誌発掘』(洋泉社)の企画整備出版社に今日の問題社の名前はないので、そのことに関してはこれからも留意する必要がある。

  『インド民族史』は初版五千部で、昭和十九年のこの分野における専門書出版の受容状況を伝えていよう。同書と一緒に、本連載604の千倉書房の岡崎文規『印度の民俗と生活』(昭和十七年)を入手しているが、これも「新東亜」関連書としての刊行だと考えられるし、「東洋民族史叢書」にしても、そのような出版トレンドの中で出されたように思われる。


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