出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

チャールズ・H・ゴールド『マーク・トウェインの投機と文学』

ヘミングウェイの言によれば、現代アメリカ文学マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』をもって始まるとされている。

ハックルベリー・フィンの冒険 上 ハックルベリー・フィンの冒険 下

そのトウェインがミズーリ州に生まれ、ハックルベリー・フィンの舞台となるミシシッピー川沿いの小さな町で育ったこと、そして父親の死によって十三歳から印刷所の見習いとして働き始め、ニューオリンズに出て、ミシシッピー川の水先案内人を務め、新聞記者から作家になったことなどは、『マーク・トウェイン自伝』(研究社、ちくま文庫)でよく知られている事実であろう。

だがトウェインには作家というだけでなく、投資家、事業家としての側面も強く、出版事業と自動植字機への投資によって、巨額な負債を抱え、晩年の世界講演旅行でその負債を返済するに至った事情の詳細は、自伝でも述べられておらず、これまでよく伝えられていなかった。

しかしチャールズ・H・ゴールドの『マーク・トウェインの投機と文学』(柿沼孝子訳)が「マーク・トウェインコレクション」を刊行する彩流社から出版され、ようやくその経緯とほぼ全容が明らかになった。ゴールドはここでペンネームのトウェインではなく、本名のサミュエル・L・クレメンズを対象とし、文学者と投資家、事業家を区別して論じ、文学史においてトウェインの地位は不動だが、「仮面」でもあり、「一個人」としてのクレメンズのアイデンティティは一世代を経ても、ほとんど確定されていないと述べている。この本はクレメンズの出版業と自動植字機への投資に焦点が当てられているが、ここでは出版業に限定して言及する。
マーク・トウェインの投機と文学
『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いた一八八〇年代において、クレメンズは作家として最大級の成功を収め、同時に事業家、投資家として最も精力的な活動を展開したのだった。しかし九〇年代に入って、急速に破産へと近づいていった。それはゴールドが言っているように、「賞賛をあびている定評のあるアメリカの作家で、クレメンズほど金とビジネスに夢中になった作家は、多分いない。出版社と植字機へのクレメンズの関わりには、予想外の展開が待ち受けていた」のである。

クレメンズは七〇年代の出版社とのトラブル、及び自分の本を芸術ではなく、商品と考えるようになったこともあり、自分の出資で出版社を八四年に立ち上げ、姪の夫ウェブスターを共同経営者とした。それがウェブスター出版社である。

この出版社は八五年に『ハックルベリー・フィンの冒険』とグラント将軍の『回想録』を刊行し、前者は五万部、後者は二巻で六万部セットを販売し、成功して大きな利益を上げた。

両者の出版は当時隆盛であった「予約購読出版」によっていた。これは内容見本を持った行商人の戸別訪問による予約注文出版で、頭金を確保し、最終支払いは本の配送時というシステムだった。その実態について、ゴールドは次のように述べている。

予約購読出版は普及し、利益は大きく、十九世紀のアメリカで人気を得た。たいていの小さな町には書店がなかったので、ある意味では、行商の注文取りが田舎の文化を運ぶ役目を果たしていたが、基本的な目的は出版社のリスクを排除し、生産が始まる前にある程度の売り上げを保証することであった。

この「予約購読出版」は十九世紀半ばに盛んになり始め、クレメンズの以前の本もそのようにして売られ、大金をもたらしたために、彼はこの販売システムに一貫してこだわっていた。しかし当初成功した「予約購読出版」の栄枯盛衰が、彼の事業家としての経歴と密接に絡んでいた。

アメリカ人が都会に住むにつれ、また、特に鉄道のような輸送網が発達するにつれ、行商の注文取りの必要性は徐々になくなっていった。多くの人々が書店に行くようになり、一八八〇年代末には予約購読出版業は衰退の一途をたどった。だが、ウェブスター出版社は一八九四年に倒産するまで、頑としてこの方法に執着した。

そのために植字機への投資や企画の失敗もあり、八七年頃からウェブスター出版社の経営は急速に悪化した。そして八九年になって、「予約購読出版」の巻数の多い「ライブラリー・オブ・アメリカンリテラチャー」がとどめを刺した。これは一巻の価格の支払いで全巻を配送し、後で一巻ずつの金額を月々集める販売システムだったが、製作費が集金した頭金の総額よりも二万ドル以上多くかかってしまったのである。

このような事情について、ゴールドの散見する記述と私の推測によって補足してみる。一八九〇年前後にアメリカにおいても、鉄道網の整備によって、出版社・取次・書店という近代出版流通システムが誕生し、成長を遂げていく。それは奇しくも、日本でもまったく同時代に起きている。そのことによって、前近代システムともいえる行商人販売が急速に衰退していく。ところがクレメンズはそれまでの体験に固執し、流通販売を取次や書店ルートへシフトさせず、あくまで行商の元締めとしての各地の総代理店と行商による流通販売にこだわったために、倒産に至ったと思われる。したがってウェブスター出版社の倒産は、近代出版流通システムの成長を見抜けなかったクレメンズの失敗でもある。

これらのことはゴールドの本にはダイレクトに書かれておらず、私の想像だが、それほど間違っていないだろう。彼はウェブスター出版社の経営悪化をめぐっておきたクレメンズとウェブスターとの不仲、それらの反映として書かれた『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』について、多くの筆を割いている。残念ながら、それらについてはふれられなかったので、関心のある読者はぜひゴールドの同書を一読されたい。
アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー