戦後社会状況論
前回ふれた、マチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』が公開されされた一九九五年に、日本でもフランスの郊外をテーマとする一冊の書物が出現した。それは堀江敏幸の『郊外へ』であり、同書に収録された十三編はフィクション的散文でつづられていて、フラン…
現代の郊外の起源と見なすことができる田園都市の系譜をイギリス、アメリカとたどってきたので、続けてフランスへと飛んでみたい。フランスの現代の都市計画見取図といっていいル・コルビュジエの『ユルバニスム』(樋口清訳、鹿島出版会)にもその痕跡は明…
ロンドン郊外で最初の田園都市レッチワースの開発が始まったのは一九〇三年であり、それからすでに一世紀以上を経ていることになる。イギリスを起源として欧米へも伝播していった田園都市計画は、その後どのような行方をたどったのだろうか。日本の戦後の団…
前回、E・ハワードがベラミーのユートピア小説『顧みれば』の影響を受け、『明日の田園都市』を著し、最初の田園都市レッチワースの開発に取り組んでいったことを既述しておいた。そしてベラミーの影響もさることながら、フェビアン協会の社会主義やクロポト…
本連載や『〈郊外〉の誕生と死』において既述してきたように、戦後の郊外や混住社会は高度成長期を通じての産業構造の転換、人口増加、それらに伴う都市への人口移動と集中、モータリゼーションの進行と消費社会化といったプロセスを経て出現してきた。これ…
一九六九年の二子玉川の高島屋を起源とする郊外ショッピングセンターは、九〇年代における大店法(大規模小売店舗法)の改正と規制緩和、それに続く二〇〇〇年の大店法廃止と大店立地法(大規模小売店舗立地法)の施行によって、大型ショッピングセンターの…
ここで現代の郊外消費社会において、注視すべき存在と化しているショッピングセンターに関する言及を二編ほど挿入しておきたい。本連載53の角田光代『空中庭園』の中で、ショッピングセンターが郊外の人間にとっては精神的なよりどころ、救いのトポスであり…
*今週から、[古本夜話]を月曜日・水曜日に、[戦後社会状況論]を金曜日にアップします。ご了承ください。 嶽本野ばらの『下妻物語』はタイトルに示されているように、「行けども行けども、田んぼ」の茨城県の「卒倒してしまいたくなる程の田舎町」下妻を…
佐伯一麦の『鉄塔家族』は三本のテレビアンテナ用の鉄塔が建っている山に関する言及から始まっている。いや、山というより、山の頂に至る四通りの道についての説明といったほうがいいかもしれない。それらを列挙すれば、ひとつはバスの通る道で、民放の放送…
長嶋有の『猛スピードで母は』は団地で暮らす母と息子の生活をテーマとしている。この小説を読みながら、私が思い浮かべたのは江藤淳の『成熟と喪失』における、安岡章太郎の『海辺の光景』への言及の一節である。そこで江藤は次のようなことを記していた。…
角田光代の六編の連作からなる『空中庭園』は、「ラブリー・ホーム」という、十六歳を前にした女子高生「あたし」=マナの語りと視点に基づく作品から始まっている。「あたし」はクラスメートの「森崎くん」とラブホテル野猿に制服姿のままできているのだ。…
前回は小説におけるファンタジーのようなコンビニ、前々回は現代詩に描かれたイメージとしてのコンビニを見てきたが、そうした色彩ゆえに現実のコンビニの名称は使われていなかった。そこで今回は同じフィクションながら具体的にコンビニ名を散りばめ、そこ…
前回は現代詩の中に表出するコンビニ、それも日常の言葉によって織りなされているけれど、実質的には多彩なイメージと抽象性、あるいは深いメタファーを伴う詩的言語の世界に姿を見せているコンビニだった。そこで今回はより散文的なコンビニ、すなわち小説…
コンビニがアメリカで発見され、日本へと導入されたのはいずれも一九七〇年代前半で、ファミリーマートは七二年、セブン-イレブンは七四年、ローソンは七五年に第一号店を出している。最初は都心部から始まり、後に郊外へとシフトし、ロードサイドビジネス化…
この娘、ただ栗をのみ食ひて、さらに米の類を食はざりければ、 「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親、ゆるさざりけり。 『徒然草』第四十段より 前々回に続いて、もう一編コミックを取り上げてみる。それはいがらしみきおが〇一年から〇五年に…
『金属バット殺人事件』前回の山本直樹『ありがとう』の物語形成に大きな影響を与えたのは、一九八九年の女子高生コンクリート詰め殺人事件だと既述しておいた。この事件については佐瀬稔のノンフィクション『うちの子が、なぜ! 女高生コンクリート詰め殺人…
「わかるかい? 世の中には君たちよりも悲劇の家庭が、とてもありふれて、あふれている」 (「ムシ君」のセリフより) 山本直樹に関しては本ブログ「ブルーコミックスス論」9で、『BLUE』をすでに取り上げている。だがここでは前回の重松清が描いた「優しい…
重松清の『定年ゴジラ』も九八年に出されているので、『〈郊外〉の誕生と死』を刊行してから読んだ作品であった。この一文を書くために再読してみると、初版が出された時からすでに十五年の歳月が流れていることにあらためて驚いてしまう。最初に読んだ時、…
前回ジョン・ファウルズの『コレクター』(小笠原豊樹訳)にふれたが、一九六三年に発表されたこの小説も、その背景にイギリスの郊外の問題が秘められている。ただそれは邦訳を読んだだけではわからない。といって小笠原訳が悪いわけでなく、これは名訳だと…
『〈郊外〉の誕生と死』の脱稿後に出されたり、読んだりしたこともあって、拙著ではいずれも取り上げることができなかったけれど、本連載2、3の桐野夏生『OUT』、同29の篠田節子『ゴサインタン』に加え、今回の花村萬月『鬱』は新たに出現した、ほぼ同時…
横浜郊外の新築高層マンションと工場と新興住宅地の風景から始まる、鈴木光司の『リング』をあらためて読むと、一九七〇年代半ばに角川書店の角川春樹が仕掛けたメディアミックス化による横溝正史ブームから、すでに十五年ほど過ぎていたことを実感してしま…
前々回ふれたディックの『高い城の男』ではないけれど、もうひとつの日本の戦後を想定したSFがある。しかもそれは本連載37のリースマン『孤独な群衆』や『何のための豊かさ』(後者も加藤秀俊訳、みすず書房)、及びリースマンなどのアメリカ社会学の成果を…
郊外をめぐる問題として、カルトや宗教のことにも言及しなければと考えていた。日本と同様にアメリカにおいても、前回のディックの『市に虎声あらん』にみたように、カルトや宗教は必然的に寄り添うようなかたちで出現していた。ここで言及したいのはシャロ…
たまたま新刊のフィリップ・K・ディック『市(まち)に虎声(こせい)あらん』(阿部重夫訳、平凡社)を読み、ひとつのミッシングリングがつかめたように思われたので、これから数回書いておきたい。それはこの小説のみならず、そこに付された阿部の「ディックの…
前回に続いて、もう一冊写真集を取り上げてみる。それは都築響一の『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト)で、『〈郊外〉の誕生と死』を上梓した同年の一九九七年に刊行されていたけれども、その特異なテーマもあって、言及することができなかったから…
『〈郊外〉の誕生と死』において、日本の郊外の歴史を表象する写真集として、小林のりおの『ランドスケープ』(アーク・ワン、一九八六年)に言及している。この写真集は八〇年代半ばの東京や横浜の郊外の風景が、団地や分譲住宅地の開発によって変容してい…
リースマンの『孤独な群衆』の改訂訳版が出された。この機会を得て、『孤独な群衆』を改訂版で再読したので、それについて書いておこう。ちなみにその前に記しておけば、加藤秀俊訳の一九六四年版は毎年のように版を重ね、二〇〇九年には四十二刷、発行部数…
D・リンチの『ブルーベルベット』やロメロの『ゾンビ』、エドワード・ホッパーやエリック・フィッシュルのそれぞれの作品など、アメリカの映画や絵画に続けてふれてきたが、一九九〇年代になって、アメリカの郊外を、映画を主として俯瞰しようとする一冊が出…
私は一九九七年に上梓した『〈郊外〉の誕生と死』(青弓社)の最終章において、郊外ショッピングセンターと絡め、ジョージ・A・ロメロのホラー映画『ゾンビ』をすでに論じている。しかし当時と現在では郊外ショッピングセンターをめぐる問題が、まったく異な…
前回ようやくデイヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』に言及できたので、それに関連してもう一編書いてみたい。 一九八〇年代において、ロードサイドビジネスの隆盛によって形成され始めた郊外消費社会の風景の中で、私はその起源を求め、七〇年代に読ん…